短編
□それを人は恋と呼ぶ
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「守選手かっこいいー!」
「こっち向いてー!」
「はは、いつもありがとう」
目の前で繰り広げられるのは、それはそれはくっだらないこと。我らがカイザースのエース、猪狩守がストレッチしているだけ。ただそれだけ。投げているわけでもないのに、黄色い声が飛び、猪狩はうさんくさい笑顔をお返ししている。ふん、どうせ顔だけでしょ、顔だけ。ほとほと呆れるわ、ばっかみたい。
一方の私はこんなことしてられないんだ、守備について練習しなきゃ。ベンチの近くで腕を振るう猪狩を視界から追いやって、セカンド、私の定位置へと走った。
「わかりやすいですね」
「はあ? なにが」
おとなりさんのショートからかけられた声に、顔はバッターボックスに向けたまま不機嫌を露わにする。体制を低く構えると、ベース寄りに飛んできて。友沢にグラブトス。私を見ることもなく、ファーストへ送った。
「猪狩さんのこと、また見てましたよね」
ようやく私をとらえた目は、呆れたように力が抜けていて。「誰があんなの!」と、グラブを突き付けて反論してやった。見てない、といえば嘘になるけれど、別に深い意味はないんだから。あんなやつ。しかし、友沢はまったくと言っていいほど、表情を変えない。
「素直じゃないな、名字さんも、猪狩さんも」
素直じゃないってなによ。腹が立つ後輩ね、もう。べつに、猪狩なんてどうでもいいし。どうでも、いいんだから。
「猪狩選手、大好きなんですー!」
「どうも。嬉しいよ」
それなのに、心はもやもやする。だいたい、こんなところまで聞こえるほど大声でアピールするなんて、はしたないファンだわ。猪狩も猪狩。スターでも気取ってるわけ? 選手なら、黙ってプレーで声援に返しなさいよ。そんなことを考えてみたけれど、霧がかったそこは晴れようとしない。
「もう、なんなの……」
ぽつりと呟いた言葉に、返ってくることはなにもない。友沢ですら、視線で関わりたくないことを訴えてくる。本当、礼儀のなってない後輩よね。でも、むしゃくしゃするのはそっちじゃない。アイツよ、アイツ。
同じあかつき大附属出身、しかも同期。つまり、当時もチームメイトだった。たんぽぽカイザースを買収して猪狩カイザースにしちゃうくらいのボンボンで。私は、プロ入り四年目、キャットハンズから引き抜かれた。あのバカいわく、あおいと並ぶ女性プロ第一号としての客寄せパンダだとか。冗談じゃないわよ。
ああ、なんだかさらにイライラしてきた。いつもは、こんなわかりきったことで機嫌を損ねたりしないのに。それ以上に努力するだけ、なのに。なんで、こんなにムカついてるんだか。とにかく、元凶はきっと猪狩。控えの選手に守備練習を譲って、歩き始めた。隠すこともせず、表情を思いっきり歪める。
「猪狩!」
「フッ、名字か」
ヤツはストレッチを終えてブルペンにいるから、ファンの目がない。どうしてか、それだけで手の力が緩められた気がする。
「女の子ファンからの声援でデレデレしすぎよ! はしたない!」
「ファンが声をかけてくれるのは、嬉しいことじゃないか」
「あんたのはイヤらしく見えるのよ!」
進がため息をつくけど、しかたないじゃない。事実なんだもの。猪狩が、ファンの女の子たちにキャーキャー言われて舞い上がってる姿なんて、見たくない。高校の時も騒がれてたけれど、その時はこんなに浮かれてなかった。
「キミのファンが少ないから嫉妬でもしているのかな?」
「ち、違うわよ!」
「はは、まあ無理もないさ。顔も野球のセンスもバツグンだからね、僕は。目立たない方がおかしいよ」
「この、ナルシスト!」
もうやだ、あんたはいつからそんな男になったのよ。そう叫んでしまいたかった。私の胸のあたりのつっかえは取れるどころか、さらに深くまで刺さったような気がして。バカ猪狩、バカバカバカ。ダッシュでその場を去った。
「くっ、はは、僕のファンに妬くなんて」
「だから、女性ファンを大切にするようになったんでしょう? 兄さん、性格悪いよ……」
「アイツがにぶいのが悪いんだよ、僕に非はないね」
「……はあ、名字さんも苦労してるなあ」