短編
□隠しあい
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私の進学先は、帝王大学だった。部活には入るつもりだが、学問に集中したかった私は、弱小と言われていた野球部に入部したのだ。マネージャーとして。どうせ弱小、そんなに気負うことはないだろう。そんな気持ちで。
しかし、それは間違いだった。
キャップからのぞく鋭い眼光。迷いなくミットへと射抜く豪速球、くるくるとバッターを回してしまう変化球。そんな野球センスをもった同い年の山口賢くん、彼の存在が部を強く引っ張っていったから。
まさしく帝王大学に差し込んだ希望の光。なぜ、こんな弱小大学に来たのだろう。首をかしげずにはいられないほど優れた選手なのだと、素人目にもわかった。
そんな彼が、一年生ながらも部の中心へと席を譲られるのに時間はかからなくて。毎日のように「いつ見てもいいピッチングだな!」なんて、山口くんへの賞賛がマウンドへ集まる。本人は小さく頭を下げるだけだったけれど。
弐土監督も、キャプテンも、チームメイトも、誰もがこの大型新人に期待した。気づけば私も、学校を終えたあとに控える部活の時間が待ち遠しくなって。山口くんの勇姿を早く見たい。いつのまにか、学問より夢中なんだなあと口を緩めたもの。
そんな彼も私も、もう四年になっていた。最後の年だった。
帝王大学は山口くんのおかげで強豪の仲間入り。この人がすべての試合を投げて、勝利を手にしてきた。みんなを引っ張る文句なしのキャプテン、そんな存在。私は、休憩も挟まずに室内で機材と向き合う彼に近づいた。
「山口くん」
「……名字か」
「少しくらい休みなよ。山口くんは私たちのエースなんだから」
相変わらず帽子のつばが彼の表情を隠している。邪魔だなあ。距離をさらに縮めると、私はその目隠しを取り上げた。
とたんに、緑色のやさしげな瞳が蛍光灯の明かりを見ることとなって。そして、普段のストイックな山口くんからは想像できない、困りながらも微笑む父親のような表情を照らした。
「わかった、それなら休むよ」
「うん、そうしてね」
そう、彼は帽子を取ると人が変わったように穏やかになる。いつものがんばりやな山口くんも応援したいと思うけれど、こっちの方が話しやすい。自分が話すとき、こうしてそのスイッチを押してやるのがきまりとなっていた。
山口くんがその場に座り込んで、私も同じくとなりに腰を下ろす。タオルを肩にかけた彼は、おしゃべりな人ではない。視線をほんのすこし上に向けた。
「もうすぐ最後の大会だね」
「……早いものだな」
彼が見つめたのは、ここまで連れてきてくれた右手。そのせいで、私は一方通行に横顔を眺める。
「うん……」
私の身体はぽかぽかと熱を持ち始めて。試合で、気持ちいいほどに野手を翻弄するこの人に、特別な感情を持っているのだと再確認させられる。水面に落ちた水滴のように、じんわりと広がっていく温度が心地いい。
未だ私を見てくれない山口くん。その目はやっぱりというか、なんというか。さっきから視線を離そうとはしない。
「あのね」
この人が見ているものは、出会った時からずっと野球ばかり。私の眼差しなんて、今までもこれからも気づきはしないのだろう。でも、これだけは伝えたい。私にだってあるんだ、そんなこと。
「聞いてほしいことがあるの」
ようやく私を目に映した彼は、ふしぎそうにぱちぱちと瞬きをして。その仕草がかわいらしく思えて、口元がきゅっと細く弧を描いた。
「私、最初はもっと軽い気持ちで野球部に入ったの。弱小だから、勉強に打ち込めるなって」
小さな声で「そうだったのか……」とつぶやく山口くんは、驚いているのだろうか。エメラルドグリーンの目がすこし大きくなる。マウンドじゃ、滅多なことでも動じない彼の反応が嬉しくて、私の口はさらに弾みをつけた。
でもね、変わったんだ。本気で野球とぶつかる山口くんを見ていて、私も本気になろうと思えたの。もっと、山口くんや部員のみんなを支えたいと思えたの。
まるで告白でもしてしまいそうなほど、私の目には情緒的な熱が宿っていたに違いない。だって、心から流れた気持ちの強さが身体中を駆け回っているんだもん。野球に負けじと、彼をまっすぐ見すえた。
「だから、ありがとう」
交わる視線に心拍数があがっていく。そんななか、歯を見せて、にっこりと会心の笑顔。彼はひかえめに同じ表情をしてくれて、そっと私に手を伸ばした。
恋する女の子であれば、ひとり残らず胸を鳴らすであろう、好きな人の大きな手。しかし、それが私の髪を撫でたとき、気づいた。
「私も、名字やチームメイトがいたからだ」
山口くんが、私に答えるように真剣な眼差しを送ってきて。それがあまりにも純粋なものだったから、私とは違うのだと。
「ここまでやれたのは、間違いなくみんなのおかげだよ」
私は、しずかに身体を鎮火する。誰にも知られていない想いを、胸の奥のおくへと大切に包みこんだ。
「……ありがとう」
頭に感じる温かさを噛みしめて、彼の目尻がやわらかく下がるのを見ていた。それと同時に、これが最後だと思った。大切だから、もうこれ以上外には出さない。そう誓って、私は足元に転がるボールを山口くんへ手渡した。
彼は、左手でそれを受け取った。