短編

□二人が落とした砂の中
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僕の兄さんはすごい人です。自慢の兄さんです。僕に投げ込むストレートは小学生のころから中学生に負けず、中学生のころから高校生に負けていません。

僕はそんな兄さんと野球をすることが大好きでした。まだ幼い僕が言うのははなはだしいかもしれませんが、僕の生きがいでもありました。

僕と歳が違う兄さんは、一足はやく中学生から身体を抜け出したのです。

僕の兄さんはすごい人です。高校一年生の時から先輩方を差し置いて注目を浴びました。兄さんは負けず嫌いで、努力家で、まっすぐな人です。瞬く間に、声がかかりました。プロになってほしい。ぜひうちの球団に来てほしい。高校生という新しい舞台に立ってまもなく、兄さんは一躍有名人となったのです。

兄さんを眺めるだけの僕。

なんと表現したらいいのでしょう。僕は胸のあたりが虫に食われた心地でした。兄さんは僕の兄さんなのに、家の前で知らない人に囲まれています。僕の知らない大人の微笑みで大人と話します。穴だらけ、虫食いだらけのその人は僕の知らない人です。兄さんじゃないみたいでした。

そんな時、僕に手を差しのべてくれたのは、名前姉さんでした。

名前姉さんは髪の長い綺麗な人です。彼女は僕達の幼なじみ。とてもとても近いんです。いつも僕の先を行く兄さん、そしてそんな兄さんについて行きながらも時折振り返ってくれる姉さん。「もう、進がまだ来てないよ」と兄さんの足を止めるほどの優しさを持った人でした。

彼女はあかつき大附属高校の制服を揺らして言いました。

「どんなことがあっても、守の弟はたったひとりでしょう」

その言葉にどれだけ救われたことでしょう。名前姉さんはただただ兄さんのことを僕に諭します。そして気づけば、彼女に兄さんを重ねていました。でも、しかたないですよね。だって、彼女は昔から僕達と一緒にいた人。その人が言うことに嘘なんてありますか。

ないですよね、ないと思いますよね。

僕は思いました。また兄さんと僕と、名前姉さんの三人でいられるのだと。こんな人たちは僕たちのなんでもないんだって。

なんの根拠があるんでしょうね。落下点にクッションがあると信じて、パラシュートもなく崖から飛び降りるムチャクチャな人と何ら変わりません。

もちろん、そこにはクッションもなにもありませんでした。

ある時の話です。僕が学校から帰ると、兄さんと名前姉さんがいました。

「あれ、帰ってたんですね」

「あ、す、進……おかえりなさい。今日は野球部の練習が無かったの」

いつもは笑顔を見せてくれる名前姉さんが、余裕なさげに顔を赤らめています。珍しいこともあるものですね。

「……名前、お預けだな」

「も、もうっ」

まただ。彼女にしてはなかなかない光景、いつもは兄さんにだって隙がないはずの名前姉さんは、ご覧の通りどこかおかしい。しかし、そのリンゴのような顔。思春期の僕がわからないなんてことはありませんでした。

誰かがそんな表情をしようものなら、ここぞとばかりにクラスメイトが囃し立てます。お前、アイツのことが好きなんだろう、と。

兄さんを見つめます。恥ずかしげに顔を染める名前姉さんに、これまた珍しく優しい眼差しを送っていました。あの兄さんが、ですよ。本当に珍しいこともあるものです。

あれ、どうしたのでしょう。なんだかあの時と同じです。大きな虫が僕の身体をむさぼり始めました。兄さんと名前姉さんは僕の大切な人、知らない大人たちはいません。けれど、殺虫剤ではどうもならないほど大きな風穴が僕につけられてしまったのです。

夢でも見ていたのかもしれません。パラシュートはおろか、羽でも生えた夢を。いてもたってもいられなくなって二人から離れました。

二人は高校生、僕は中学生。こう表現すれば年齢差があるように見えます。でも僕たちはたったのひとつしか違いません。二人が生まれて、地球が太陽を一周して、そして僕が生まれました。それだけのこと、ただそれだけのことです。

けれど、それがどんな意味を持つか、ようやくわかったのです。

僕が兄さんより大人びていても、彼女の身長を追い越しても、越えられない壁がいつも僕の前にはありました。僕が一歩踏み出せば、二人も同じだけ歩んでいく。追いつくことなんてできませんでした。

三人で一緒にいる?バカバカしいにもほどがあります。どこまでのうてんき、快晴な頭をしているのでしょうね。

ふたりはこうして、共に手を取り合って進んでいた。僕はただただそれを目指して走っていただけ。隣に立つことなんてできないのに。

僕は部屋の鍵をひねりました。ようやく、たったひとりになりました。

しばらく考えました。姉さんが言ってましたよね、猪狩守の弟は僕だけ。なにがあっても、です。

二人は僕の大好きな人です。自慢の兄さん、優しい姉さん。とっても、とってもお似合いです。いつも僕たちを引っ張ってくれる兄さんにとって、時々母親のように包みこんでくれる姉さんと二人ならどんなことがあってもきっと大丈夫でしょう。理想的です。そんな二人を誰が祝福するのですか。兄さんの弟であり、姉さんの幼なじみである僕、ですか。

僕は、このことを望んでいたような気さえしました。自分の場所が流砂のように足元からすくわれていったとしても、僕は二人のことが大好きなんですから。大切な人なんですから。

すごく嬉しい、そうです。すごく嬉しいんです。ああ、涙が出るほど嬉しいんです。最高じゃあないですか。そう思います。

ですが、拭った涙は思った以上に冷たくて手が震えました。僕の心に空いた風穴は、一体なんなのでしょう。それだけが僕の中に砂で埋められました。どういうわけか、二度と掘り返してはいけないと思ったのです。
 

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