短編

□シーソーゲームの幕下ろし
1ページ/1ページ



高校での練習を終えた帰り道のこと。夕焼けが街も僕もなにもかもを「自分のものだ」と言わんばかりに赤く染め上げていた時の話だ。

僕は赤みがかかった金属バットを持つ娘を見かけた。これまで生きてきた僕の経験から言えば彼女は素振りをしているはず。しかし、バットがのしかかっているだけなのかもしれない。通り過ぎゆくネコも目を配るのが億劫になるほど彼女は素人だった。

身体に備え付けられただけの棒きれに過ぎないそれでは、とてもとても僕の球はおろか中学生のストレートでも打てないだろう。

まあ才能のないタイプの人間だな。それに、女が野球をしても男に勝るはずもない。僕もネコ同様に彼女の前を流れるように去ろうとした。

「あ、あなた猪狩守でしょ!」

しかしバットと同じ色の人差し指をまっすぐ僕へと突きつけたから、それは叶わなくなる。その時の自分の顔は今でもよく覚えてるよ。面倒なことになったとも思えたしね。

これが僕と彼女、名字名前の出会いだったんだ。

それから彼女は、僕を見かけては勝負だと到底身の丈に合わないことを言ってみせた。最初は半人前の名字には「キミの相手なんてつまらないことはできないね」と返していたけれど、彼女はバカみたいな野球バカだったからか、諦めようとしない。ネコだけじゃなく、馬や鹿もため息をついてしまうほどだ。だが、咎めはしなかった。帰路も変えなかった。一向に改善されない同じフォームの素振りと聞き慣れた彼女の声、それに飽きはしなかったからだ。

やがて、僕たちにもそれぞれ後輩とやらができた。そんな時のことだった。このバカに変化が訪れたのは。

いつもと同じ帰り道を辿っていた時、やがて見えてきた彼女の姿に目をそらした。どうせ、あっちから僕に気づいていつもと同じことを言うのだろう。いつもと同じ赤に染まりながら。

「あ、猪狩守!」

ほうら、来た。

しかし、バットの先を地につけた彼女はいつもとなにか違った。

「ねえ、聞いてよ!」

こんな言葉は初めて聞いた。思えば彼女からは勝負だ、とそればかり聞いていたから。足の速いランナーがなりふり構わずホームを狙う目、それを背中から感じている時のようだ。心に湧く波を抑えきれないでいると、彼女は見たこともないような潤んだ瞳を僕に向けたのだ。

「今日ね、初めてラブレターをもらったの」

いつもと違った。頬が赤いだけじゃない。朱すぎるんだ。夕焼けじゃ染めきれない情緒的な朱さに、僕の中のランナーが返される。
爪が食い込むほどに左手を握りしめた。痛いはず、すぐに解けばいいのにそれが許されていないのだ。

「名字先輩の挨拶してくれる笑顔が好きですって」

熱そうな頬に手を当てて笑う女の子は僕の知る名字じゃなかった。名字は野球にしか興味がなくて、そして、そして……
おや、どういうことか。彼女は野球が好きな娘としか浮かんでこない。どうやら、僕は彼女のことを深くは知らないらしい。こう推定することしかできないのもしかたないじゃないか。本当に、今知ったことなのだから。痛みに刺された左手は赤く滲んでいた。

「ずっと見ていました、だって……へへ」

そしてこの文句。なにが、ずっと見ていただ。僕が、この僕が連打を浴びせられて追加点を許すだと。熱く燃え始める身体は、名字と同じ色なのにその中身はずいぶん異なっている。頭が炎に焼かれて、僕は彼女の腕を掴んで引き寄せてやった。左手だ。

名字は目を白黒させた。赤いはずなのにね。こんな距離で見た瞳は意外にも澄んでいて、野球の他にも僕がはっきりと映っている。

「フン、後輩が見ている時間なんてたかが知れているじゃないか」

そう、僕はコイツのことをずっと前から知っている。どんな輩かも知れぬソイツより、ずっと前から。
赤い瞳のように、僕のそれにもくっきりと名字が映っているのだろう。この顔の朱い娘が。僕の胸中は夕日色のかち合いを感じるだけで見事に潮が引いた。しかし、それと同時に視線以外にも奪ってやろうと満潮を迎える。

「名字、僕と勝負しようか」

とたん、いっぱいに光をつめ込んだ名字の顔。ピカピカ輝くこんなもの、僕以外の誰が知っているというんだい。そうだ、そうやって僕しか知らないことが増えればいい。だって、僕の方がずっと前から彼女を見ている。こうでもなきゃ、理不尽だろう?

形勢逆転、さすが僕だね。まずは彼女を三振に打ち取ってやろう。そうすれば、今度はこっちの攻撃だよ。取られた分をどうやって返していこうか。

星でも入れたような目でバットを飾った彼女へ、口角が抑えきれずに上がった。
 

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ