短編

□そして今日も
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時計の短い針が五を回らないころ、三重に積まれた毛布の下で目を覚ました。寝ぼけた頭で私を起こして、いそいそとその防壁から抜け出す。その途端に襲うのは、身体を刺すような絶対零度。もう毎日のことといえばその通りだけれど、この瞬間だけは「うう、さむっ」と自然に口が動いてしまう。すぐに寝ていた上着に手を伸ばして私の一日は始まるのだ。

二枚仕掛けのドアをくぐると、まだ空には星が見える。深い紺色と白いどこか遠く宇宙人の住処。私の瞳いっぱいにそれを映してから大きく息を吸った。体温には見事に及ばない空気が身体を芯から冷ますのに、気持ちがいい。もはや着込んだ服など必要ないほどに外気をつめこんでパンパンになった身体から、思いきり白い息を吐き出すのだ。

昨日、空から降ってきたのかな。銀色で埋め尽くされた私の居場所。ステージみたいだ、古びた街灯が誘うそのキャンバスに足跡を残しながら歩く。風は吹いていない。ただただ私をつつく冷たい針が心地いい。酸素とか、二酸化炭素とか、難しいものは一切入ってないような澄んだ空気が人工的な灯りとともに私を包んだ。

もうすぐ。

ちっぽけな足跡が導いたのは見渡すかぎりの大平原。そこに、雪と私のふたりぼっち。地平線を目に映すと、瞬きの許されない景色が起き上がった。ゆっくりと空の表情が変わっていく。濃紺のインクに水が加わっていくような、そんなグラデーションをここで見るのが好きだ。雪も、建物も、生き物も、こうして目を覚ます。その瞬間が好きだった。

三百六十度、パノラマ写真でも収めきれない壮大なストーリーを真っ赤に仕上がった頬で感じている。どこかの大工さんが取り付けた照明役はひと足早くこの舞台から降り、主役だけになってしまった。この世界すべてだ。

夜でも朝でもないこの時は、いつも天で微笑んでいて手が届かない太陽と一番近く触れ合える時間なのだ。

私はその景色をぼうっと眺めていた。やがて空が目を覚まして風が静かに雪原を揺らし、夜に包まれていた世界がそっと吹き飛んでいく。まるで、大きな本のページがめくられるようだった。太陽が連れてきた新しい今日が始まる。

そして、もうすぐだ。

舞台はこれで終わりじゃない、続編がある。このキレイが照らす風景に、ポツンと入りこむ人がいるの。ああ、ほら、声と足音が聞こえてきた。

その方に目をやれば、お世辞にもこの悠々とした銀世界に似合うとは言えない人。一定のリズムで寒空の下、白い煙をあげる姿はさながら蒸気機関車のよう。「イチッ、二ィッ、サンッ、シッ」と汽笛を鳴らす。私よりも大きめな轍だ。

両手を口元で丸めて、お腹の底から彼の名を呼んだ。おお、今日は一発で気づいてくれたな。

「名前、朝から早いなーッ!」

「八雲もねー!」

米粒のような機関車に敬礼をしてみせると、彼、北斗八雲はわざわざ路線を変えてこちらに向かってくる。足元は走りづらいはずだけれど、彼にはお構いなしみたい。律儀な性格に小さく微笑んだ。

「相変わらずね。こんな時間からランニングなんて」

「朝日には負けてられんからなッ!」

「ふふ、なあにそれ」

ヘンテコなことを言い出す男、これでも私の幼なじみ。八雲は私の前まで駆け寄ってくると、てらてら光る額を腕で拭った。彼は野球をこよなく愛する人なのだ。コトバはどうであれ、その頑張りには素直に頭が下がる。

「名前はまた日の出を見ていたのか?」

「まあね、ついでにアンタのことも」

「そうか、それなら太陽が高く昇るまで共に走ろうじゃないかッ!」

「ええ、何言ってるのよ。ヤダヤダ」

彼は本当に野球しか頭にない。恋愛はもちろんのこと、生活でも野球本位だ。話せる女の子が私しかいないほど女性が苦手なこの幼なじみは、女の子の気持ちなんてわかるはずもないのよね。バカみたいなことを言うのも彼の個性。ふっ、と白く漏れた吐息がまるでタバコのようだった。その煙は「ホントだね」と言わんばかりの空に溶けていく。

けれど、こうして猪突猛進に努力を重ねる八雲は見ていて飽きが来ない。どこまでもどこまでも、私のもとを離れて走っていってしまいそうな彼に目が奪われてしまうから。

「八雲は毎日頑張ってるなあ」

「いいやまだまだ! 練習に終わりはないッ!」

「相変わらずなのね」

「継続は力なりだッ!」

彼のグッと拳を突きあげる姿はどうも、この空と雪の中じゃ浮かんで見えてしまう。

しかし、私の髪を深海のような黒に冷やされた風がなでる。それが八雲の濡れた額にも当たって、心までヒヤリと雪に触れた。いくら彼が熱い人でも風邪をひいてしまうかもしれない。「そろそろ行きなよ」と彼の背中をそっと押すと、ようやく練習に戻っていく八雲。

だが、その背中が遠くなり始めたころに彼は私を振り返ったのだ。

「名前!」

「なに?」

いぶかしいこともあるものだと目をパチリ、瞬かせた時だ。彼はその強く縁取られた瞳をいとも容易く和らげたの。白い歯がニッカリとまだ薄暗い今日を照らしている気がした。

「また明日なッ!」

再び通る雪風。返事でもしたのかと思うその流れに身を任せて微笑んだ。私じゃ不足だと唇は閉ざしたまま。いいえ、彼の舞台に上がることなど厚かましくてできないから。私は、こうして見ていたい。

そして、私の朝はやって来るのです。
 

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