短編
□もっと早くに
1ページ/1ページ
隠しあいの続き
山口くんを遠い世界の人のように眺めてるだけでよかった。私を疑いもせず、チームメイトの柵へと大切に抱き入れる人だ。本当に罪深いと思う。淡い乙女心は春の鴨川に落としていったつもり。
でもこんなことって、ないよ。
熱した球場、最後の大会、決勝。私たちも観客も空も、燃えない方がおかしかった。注がれる炎の息で真っ黒焦げにされて、誰も気付かなかったの。
訪れた終盤。山口くんから流れる汗なんて、牙を向く太陽のしわざだと、気にすらとめなかった。いつもみたいに、帝王大学希望の右腕が三振の山を築いてくれるものだと。
しかし、彼はまるで獣がムチで叩かれたような頭を突き刺すほどの叫びをあげた。グラウンド全体が地響きをたてて彼と共鳴する。
地を這う声が私の足に届いた瞬間、寒くなんてないのに全身の体温を枯れさせた。身体が震える。腕で押さえるけれど腕すら震えている。
「名字さん! 山口くんを!」
「は、はい!」
弐土監督に引き戻された私の目に映ったのは、チームメイトに運ばれてベンチで横になる山口くん。歯をつきたてた唇から、赤いたまりが小さく形づくられては歪んでいく。左腕で押さえた私たちの希望は見る影もなく怯えていた。
その時に気づいたの。右腕一本じゃ抱えるのは不可能、そんなものをずっとずっと無理矢理引きずりながらここまで来たことを。
彼の左腕に手を重ねた。顔を見ようとしても、なにかが滲んでよく見えない。邪魔で、邪魔で、思いきり瞬きをするけれど晴れはせず。
「山口くん……!」
「名字……すまない、な」
「何、言ってるの……」
ただひとこと、帽子を被ったままなのに初めて聞いたやさしい声。どうしてそんな風に話せるの。何も見えないまま知り得たことは、太陽に当てられた彼が熱い。いや、熱すぎるということ。何かしてあげないと、と慌ててコールドスプレーを取り出す。
しかし、山口くんはそれを制した。「多分、もう手遅れだ」と。帽子がやはり目隠しだ、急いでそれを外してやると、熱がたまりにたまった彼の頬へ私の雫が落ちて。ついに視界に彼が広がった。脂汗が噴き出している、それなのにひどく穏やかな顔でした。震えた腕と彼の顔がつながっているなんて、とても信じられないほど。
「山口くん、ずっと、ずっと隠してたのね……みんなのために」
「そんなものじゃないさ」
流れていく涙は止まりそうもなくて焼けたこの人を濡らしていく。彼の頬におさまりきらなくなった粒がぽとりとさらに下へ落ちていって。優しい表情の彼が泣いているような錯覚に陥った。綺麗な涙、なんて思わずにはいられなかったんだ。
さらに淡い緑色が小さくなって、少年のようににっこりとした笑顔を作った。私の手の下に置かれていた彼の左腕が動いて、私に伸ばされて。その右腕に触れる。ものすごく、すごく熱い。火傷しそうなのに手は縫い付けられたように動かない。
「だから、そんな顔をしないでくれ」
そっと私の涙を拭ったたくましい指は、やっぱり小刻みに揺れている。心配しなきゃいけないのはあなたの方なのに、どうして。こんな時にも素直に灯る胸のろうそくが悔しい。悔しくて、彼が言っていることに逆らってしまう。
「山口くん、ごめんな、さい……」
「……どうして名字が泣くんだ。まだ帝王大学の負けは決まってないだろう」
違うの、そうじゃない。あなただから、だからこんなに悔しいの。届くはずもない想いは隠すって決めたのに、あふれる雫は私を弱くする。一緒に気持ちまで流れてしまいそうなの。
山口くんは、また私の目元をゆっくりと撫でる。まっすぐ見つめる眼差し、やっぱり彼の目に私は映ってなかった。
「私だけが選手じゃない。みんなこの大会に向けて頑張っていた」
「……うん」
「仲間を、信じろ」
そう言ってるんだ、大切なひとが。不恰好でもいい、私は笑顔を作ってみせた。ひどいひどいウソだ、きっとこの先一生忘れることのない。しかし、それを見て彼が満足そうにしたのだから、私の史上最低な笑顔はえらそうに意味を持ってしまったのだ。
やがて、ベンチにやってきた救急隊の人に運ばれた。行き先はきっと病院。それでも、どうにもならないことを本人は知っている。なのに何ひとつ恨みのない顔をするんだ、全部ひとりで抱えて。
もっと、怒ってほしかった。当たってほしかった。そして、頼ってほしかった。
ずるいと思った。ひどいと思った。全てを棚に上げて、彼を心の中で責めた。どうして話してくれなかったの、と。
しかし、その棚は簡単に崩落して木っ端微塵に砕けた。なにもかも私の頭上に降ってきたのだ。ずるい、ひどい、と言われるのは私。私だって、彼に本当のことをひとつも話していないじゃないか。
「山口くん、す、き……」
遅すぎたの、なにもかも。それなのに今さら命乞いでもするように呟いた言葉。すぐに空気へと溶けていったけれど、消せなかったんだ。心にはずっと鉛の後悔が残っていて。口から指を入れても取れそうになかった。