短編

□彼は膝にも及ばない
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ここ帝王実業高校じゃ有名な話、嵐のようなニュースが上陸しました。

僕たちが最上級生になってまもなく、この高校が一番力を入れている野球部のエースが突然ポジションを降りたらしいのです。大会は目の前なのに降りたのでしょう?僕からしてみれば、エースなのにと不満批難が殺到して長蛇の列を成しますが、まあ僕は部外者です。これを口に出すほど無責任なことはないので、飲み込んでしまいましょう。

その渦中にある彼は、僕よりひとつ年下の友沢亮くん。僕だって名前くらいは聞いたことがあります。確か、高校生離れした変化球を投げる選手でしたっけ。

野球部の人たちも、みんなこぞって心配していれば怒ってもいました。そうですよね、野球はチームプレイ。誰かひとり欠けてしまえば、それが自分たちに返ってくるなんてことは、スポーツに不案内な僕でもわかります。

野球部の人には腫れ物に触れるように接していたころ、これは僕が一年生の教室の前を過ぎ去ろうとした時のことです。

「じゃあ、友沢先輩はやっぱりショートに……」

もはや流行語にまでなってしまいそうなその人の名前に、僕はつい耳を大きくしてしまいました。ついでに目もその声なる方へ。

「アイツのことはオレがなんとかする。だから、久遠はこの夏のエースとして練習に励んでくれ」

「エースなんて、そんなものッ」

「……久遠」

「…………すみません。そうですね、あの人のことは僕より先輩の方が適任だと思います」

「オレは別にそんなつもりじゃないよ。とにかく、あまり思いつめるなよ」

「……はい」

そこには、色素の薄い髪の一年生と彼が話すに友沢亮くんと同じ二年生でしょうか。野球部と思われる二人がいました。開いたドアから彼らが見える時間はそう長くありません。僕は足を止めずに、野球部さんの悲報に合掌する他は何もできないのです。

ただ、これほど大事になって学校中で騒がれている話。僕もここに通っている以上、足を突っ込むことはいけなくても耳を塞ぐことはさらに良くないと思いませんか。

僕は右から左に流れてくる話の八割を拾いながら、自分の教室へと向かいました。もちろん、その八割とやらは友沢亮くんのことです。二年生の教室を通った際に聞こえたことですが、彼はここ何日か学校を休んでいるそうで。

彼も彼で苦しみや悩みがあり、理想と現実との戦に満身創痍なのかもしれません。数刻前の僕は、くるぶしが浸る程度の浅はかな人間でしたね。さざ波にも勝てやしません、友沢亮くんにも頭を下げなくては。僕は、野球部さんには見劣りもいいところ貧相な胸の中で額を浅い波に擦りつけたのでした。

僕の席はどちらかといえば後ろの方、どちらかといえば窓際、つまり、どちらかといえば真ん中の方に位置します。この一部屋の中で四荒八極、思い思いの休み時間を過ごすクラスメイトの間をなみ縫いで進みながら、ようやく僕の席に腰を下ろしました。

隣の席は蛇島くん、人の表情をよく見ていて困ってる人がいれば手助けでも足助けでも捧げる優しさの持ち主です。そんな彼が、友沢亮くんのことで心を傷めていないはずがないでしょう。

僕はなにやら次の授業の予習でもしていそうな蛇島くんに体半身をそっと寄せてみました。

「蛇島くん」

「おや、名字くん。なにか御用ですか?」

「ええと、僕が話していいことなのかわからないんだけどね」

僕が言葉を切ると、蛇島くんはその細く柔らかげな目で頷きました。

「友沢亮くんのこと……野球部は大変そうだね」

「ああ、そのことでしたか」

蛇島くんはゆっくりと長い髪を揺らします。僕はその動作から視線を離しませんでした。さも、心配していますと言いたげな色の抜けきった目で。
しかし、蛇島くんは眉を下げただけで僕を見つめました。微笑みすら携える彼の心は、何枚の甲冑を羽織っているのでしょう。

「……僕ら先輩が彼に頼りすぎたのです。きっと、その重圧は彼にしかわからないものだった」

「蛇島くん……」

「年功序列ではないからこそ、帝王実業はここまで来れた。しかし、上に行くほどその分足枷が架かるのです。……辞めていく人間は年功序列ですから」

蛇島くんの言葉は、僕の心にも甲冑をはめこみました。そうですか、こんなにも重いんですね。陳腐だけれど身をもって知ったこの感覚に指が震えます。

「先輩なのに情けない話ですよ。後輩ひとり、助けられないなんて」

「でも、蛇島くんはこんなに優しい人じゃないか……」

まともに動きやしない指で、彼の気持ちを少しでも剥いであげられたら。だって、優しい人なのにこんなことってないじゃないですか。
僕が彼の目を見つめた時、珍しいことにその薄い瞼から顔をのぞかせたものに気づきました。蛇島くんの瞳です。

「……優しい人に、見えますか?」

じっと僕を刺すそれは、いつもの蛇島くんの雰囲気からは外れているような気がしました。なんだか鋭利ですね。しかし、そんなことを考えては失礼でしょう。彼の目に映る僕を見つめて、笑顔を浮かべました。

「うん、見えるよ」

「……そうですか」

蛇島くんは満足げに瞳をしまい込みます。やっぱり微笑んだ彼を見ると、言ってよかったなと自分の行動に丸印をつけたくなりますね。僕の甲冑はすでに落ちていて、口元に微笑を散らす彼の表情に後押しされるように、心が喉を通っていきました。

「なんて言ったらいいかわからないけど……僕、野球部のことを応援しているから」

「そうですか。クラスメイトに期待されたら、打たないわけにはいきませんねえ」

「うん、蛇島くんって二年生の時から野球部の一番上だったんだろう? 確か……帝王、だっけ」

「ええ、そうでしたよ」

上機嫌な饒舌は留まることを知りません。目の前にいるこの野球という雲の上の世界で戦い、そしてその中でも雲に乗る蛇島くん。僕は身体を燃やして、彼への尊敬を表すのです。ほっぺたはきっと興奮で膨らんでいることでしょう。

「じゃあ、友沢亮くんのためにもだね」

「……ククッ、彼のために、ね」

チームメイトのことを思ってか、先程より笑みを深めました。彼のその顔は見たことがなくて、蛇島くんにとって野球部とはそんな存在なのだろうと思います。いいえ、僕は部外者です。僕の勝手なものさしで見るのはやめましょう。友沢亮くんの時だって、そう学んだじゃないですか。

決して大手を上げるようなものではありませんが、つつましげで小さな喜びを描く蛇島くんの顔。僕はそれを眺めながら、この場から静かに降りました。彼の気持ちは彼にしかわかりません、よね。
 

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