短編

□知らぬがさくら
1ページ/1ページ



僕には、残像も実像になってしまうくらいに見慣れた光景なのだがね。

「相変わらず、猪狩家は広いわね」

僕の部屋に来るたび決まって同じセリフを吐く彼女、それももはや耳にタコどころかイカまでできてしまいそうだ。何度聞いたことか。

しかし、毎度毎度飽きずに視線を彷徨わせる名前は僕まで飽きを忘れさせる。胡座を重ねた足に頬杖をついて眺めていると、彼女は僕のグラブに手を伸ばした。そこに興味があるのか。

彼女は、知的好奇心と探究心を足して三でかけたような人だった。気になるものがあれば遠慮も躊躇いもなく近づいていく。

その手にグラブを渡してやると、考えるより先に指を通した。いつもは僕の焼けた腕にしかめ面をしている茶色の右手も、彼女の白い腕の前じゃ上機嫌らしい。こいつはこんなにも嬉々とした革色だっただろうか。

「ねえ、知ってるかしら」

「なんだい」

彼女の目がグラブから僕に移動したのは突然のことだった。思ったより近い場所にある瞳は触ったら黒ずんでしまいそうなほど澄んでいる。

「グラブにね、人差し指を入れるところがあるじゃない?」

そうだ、これはまだ話していなかったね。彼女はその性格ゆえ、マッサージが必要になるほど雑学に凝って凝って凝り固まっているのだ。こうして彼女のもとにいると、明日にも明後日にも使えずにいずれ頭の隅から消えていくチリが増える。正直、このチリに助けられたためしはない。

「これ、投手用にしかないのよ」

しかし、見てくれ。したり顔を披露する名前はこれまでとどこか雰囲気が異なるだろう。彼女はこの時に限り、みなの知る大人の皮を剥がして子どもに退る。

こんな姿は、彼女と出会った当初は想像もできなかった。つまり、この豆知識モードの名前を知る人間は少ないんだ。そのせいあってかな。どんなに小さくくだらないことも、僕にとっちゃ足を止める価値がある。

「へえ、わりとこいつのことを知っているんだね」

おおかた、以前僕の部屋に来た時にでも疑問を持って調べたんだろう。付け焼き刃の知識に過ぎないが、それを冷やすような無粋なマネはやめておこう。むしろ、熱いうちに打てと口を開いた。

「じゃあ、投手用と野手用でポケットの深さが違うのは知ってるかい?」

「あら、それは知らないわ。なぜ?」

「ピッチャーは投球の時、グラブの中でボールを握り替える動作があるからだよ」

「なるほど、守は物知りね」

そして、僕が彼女に敬意を評したくなる部分はここである。彼女は他人の意見を息をすることと同じ要領で吸い込むのだ。プライドという垣根の低さがウリの名前にしては造作もないことかもしれないが、僕にとっては七難しいことこの上ない。時々、彼女の性格が羨ましいと思うことさえあった。

そんな彼女の探究心は留まることを知らない。家の者が名前のために用意しただろう皿の上の赤い果実、彼女はそれをじっくり見つめるとグラブを手から離した。興味の対象が移ったんだな、わかりやすい彼女はやはり退行しているようだ。

「ねえ、知ってるかしら」

「なんだい」

またもや始まった彼女の豆知識ショー。観客はいつも僕ひとりだが、それが心地よくて耳を傾けた。得意気に髪を後ろ手で払った彼女は、とても賢そうには見えないがやはり魅力的だ。

「サクランボってね、日本のものは赤いものが美味しくて、海外のものは黒いと美味しいのよ」

「……へえ」

子どもに戻った彼女はにんまりと僕の前に赤く熟れた実をぶら下げて、ぱくりと口に頬った。そして、大人らしかぬ微笑みを見せるのだ。きっとこんな表情は僕しか知らない。

「名前」

「うん?」

身を温めた熱をたよりに、彼女の口元に指を伸ばす。唇から生えたようなサクランボの果柄をぷちりとむしり、それを彼女の目前に立ててやった。綺麗な瞳に映る緑色の細い茎。注がれた興味と共にそれをもて遊ぶ。

「これを口の中で結べるかい」

「ううん、どうかしら」

反応を見る限り、彼女の広辞苑にこの情報は記載されていないようだ。やってみなよ、と手渡してやると名前は食べるものとは認識されていないだろう果柄をおずおずと唇で挟んだ。

彼女の口内へと消えていったのち、咀嚼するように形を変える名前の表情。眉を寄せているあたり、四苦八苦しているみたいだ。気品のある彼女は、人前じゃこんな顔をしないはず。母さんやら誰やらを独占しているような、僕は子どもに退った目で見ていた。

しかし、彼女が一瞬だけ、いっときだけ、甘いサクランボに負けじと真っ赤に熟れた舌を覗かせたのだ。その途端に僕はふっと炎に覆われた気がした。手が熱い。いいや、手だけじゃない。頭も、足も、だ。

名前は百パーセント口の中に気を取られていて、僕の体温が上がったことなどわかっていない。もう一度、ちろりと顔を出したサクランボに僕はつばを飲んだ。美味しそうだと思ったからだ。

「難しいわね」

今度は僕の番だ。彼女の口元へと百パーセント釘付けにされた僕は、そこから吐かれた呟きですらまともに目を向けられなかった。なおも彼女の唇は縦横無尽に揺れながら課題を達成しようとしている。

考えたんだ。僕はまだサクランボを食べていないから、ひとつくらい食べたって罰は当たらないだろうと。

そっと彼女に歩み寄って距離をなくす。不思議そうに見上げてくる頭に手を迎えてやると、彼女の赤い果実のような唇に触れた。ぴくりと跳ねた身体が僕にもっと甘さをと仕向けて、舌でようやくサクランボにありついた。彼女という大切な人からもらうそれは、僕の知るサクランボより遥かに甘い。

舌が喜ぶものだから、味わうように彼女のそれを貪り食った。僕という器に温かでむずがゆくなるものが広がって、言葉になりそこねた言葉を執拗に探し求めた。名前の舌が僕の求愛に応えるように動いて、溶け合うほどに絡みつく。中にいるはずの果柄は障壁にもなり得ずに、ただただ僕と彼女を往復する。

彼女の身体が震えた。唇を離すと、大人びていると言われる名前は膝をついて肩を上下させる。荒く繰り返される呼吸と皿の上にあるサクランボのような頬、そんな顔で睨みをきかせたところで怖くもなんともない。ネコが金棒を持っていても怖くないだろう?

「もう、いきなりすぎるわっ」

「しかたないじゃないか。それともなんだ、キスをする前に声をかけて欲しいのかい」

「ち、違うけど……」

潤む瞳で反論する名前など敵じゃない。あっさりとその砦を崩すと、ふと口の中になにか入っていることに気づいた。それはサクランボの果柄だ。緩くではあるが、ひと回りされた先端同士が手を結んでいる。

僕は、どこか嬉しく思った。

「名前」

「……なあに?」

「さっきの続きだ」

名前の前にすっかり背中の丸まった果柄を差し出す。それを見た彼女は、驚きで目を見開いて解答でも待つように僕へと視線を移した。ここにきて、知的好奇心がぶり返したんだな。

それなら、お望み通り教えてやろう。

「サクランボの果柄を口の中で結べたら」

「うん、うん」

腰をおろして、膝をつく彼女と同じ目線になる。そこはやはり子どもみたいに輝いていた。

「キスが上手いんだよ」

そうして、子どもだましの笑顔をエサにもう一度彼女の唇を奪ったのだ。名前が新しいことを知った時、喜びで顔をほころばせる。それ以外の表情、恥ずかしげに顔を隠すなんて僕以外は知る所以も由縁もないだろう。
 

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ