短編
□木に水をあげたのは
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初めて野球をやったのは小学生になる前。お父さんがボールを投げてくれて、今思えばど真ん中のスローボールだったけれど、振ったバットに掠った感触が忘れられなかったの。
そんな私が野球に没頭するのは、当然、必然のこと。それなのに周りはそれを当たり前だと思わなかった。
女の子が野球なんて。
百回は聞いただろう言葉は、私の中で芽から木に育った野球熱の前じゃノコギリにもならない。人の後ろ指なんて折り曲げるつもりで野球に心を捧げてきた私にとっちゃ、当たり前のことで。しかしそれを当たり前だと思わない人は、大人になるにつれて増えていった。
そよ風高校に大型台風!女性アベレージヒッター見参!
野球は力だけじゃない!そよ風飲み込む天才名字旋風!
そんな記事や言葉、全部見飽きた。みんな物珍しさで私にカメラやマイクを向けるだけ、女という言葉を振りかざして騒ぎ立てるだけ、それだけなの。女だから。このたった数文字にどうしてこだわるのかが、私には理解できなかった。
野球が大好きだから、誰にも負けられないと練習の改良を重ねてきた。何度も試行錯誤をしてきた。ただそれだけ。野球が好きって気持ちだけでここまで来た。
でも、そんなことは誰にもわからない。周りが期待するのは結果、数字。私以外知ることのできない感情、立派に枝を広げる感情で叩き出した結果へ、つけられたあだ名は安打製造機。
上手いこと考えるわよね。読んで名の通り、安打製造機だわ。ただ、安打を製造する機械。このヘンテコな機械がまた厄介でね、無責任な人たちの手でつけられたノコギリくらいの性能はあるのよ。
バットの頭が地について、じいんと手に響いた。いけない、グラウンドでムダなことを考えちゃダメよ。集中しなきゃ。今はこのバットに試合の景色を重ねて振るだけ。グリップを握り直して、ここだ。たった一箇所、感覚だけを頼りにテープのざらつきを両手で包み込んだ時だった。
「よう、まーた取材受けてきたんか。名字は大変やなあ」
「あなたはヒマそうね」
「そう言うなって」
片手をあげて歩いてきたのはチームメイト。一応この高校ではエースと呼べる人なんだけれど、急速も変化球のキレもコントロールもどれをとってもいまひとつ。私たちと同い年なら、あかつき大附属高校の猪狩守の方がどれにつけてもこの人より上。間違いなくね。
でも、彼は努力している。見て、利き手の指の皮がボロボロにむけているでしょう。その痛々しい人差し指をビッと突き出して、阿畑はにっこりと笑うのよ。
「よっしゃ! 今日こそ天才、名字名前を打ち取ったるで!」
「また? どうせ今回も外野前よ」
「へへん。今回はなあ、とっておきの魔球があるんや」
彼はそのだらしない顔を隠す気もなく、楽しそうに腕を回す。
「こいつはなあ、アイツと茜との共同開発なんや。名字でも打てへんで」
「何言ってるの、私に打てない球はないわ」
「今に見とき、その余裕っ面に恥かかせたろ」
私は、野球にそんな顔がもうできないところまで来ている。だから、あなたが羨ましいのよ。そう思いながら、相棒のバットと共に一番好きで、嫌いな場所に行く。
バッターボックス、私が輝ける場所。昔はそう思っていたのに、輝かなきゃいけない場所に変わったのはいつだったかな。阿畑は自信ありげにマウンドに上がって、手にペッとつばをかけた。気合いはいつも以上に入ってるみたいね、それならこっちも応えなきゃ。ムダなことを考えるのはやめなさい。私は静かに機械の電源をつけた。
「ほな、行くで!」
阿畑の女房役はひとつ年下の男。次期キャプテンの座が決まっているこの子のリードだってバカにはできない。切り替えろと深呼吸で静かに燃える熱に水をかけて、バットを構える。
阿畑が私に得意気な顔を見せたのち、闘志と一緒にボールが私の膝下をえぐった。際どいコース、インローか。
「先輩、今のはストライクですよね」
ニヤリと笑う後輩。似てきてる、バッテリー同士。
「ええ、誰がどう見てもストライクね」
「へへ、それじゃあ遠慮なくひとついただきますね。バッター動けませんよー!」
「せやろせやろ! ワイもしびれてまうええコースやったわあ!」
「いいから早く投げてきなさいよ。あと、私は動けなかったんじゃないの。見たの間違いだわ」
「わあ。そよ風の希望、名字先輩がお怒りだあ」
阿畑は毎日毎日、飽きもせずに勝負だって私をここに連れてくる。ここに立てば歓声が人一倍、割れんばかりに溢れてきて。私はその声に飲み込まれてばっかり。
「さ、もう一本!」
それなのに、阿畑バッテリーと勝負しているこの時はそんなこと感じないの。歓声も聞こえない、難しいことは全部ぬき、ただただバットとボールのぶつかり合い。たったそれだけ。
阿畑が叩き込んだのはアウトハイ。見事なまでに初球との対角線上で、これも審判によってはボール判定だ。二球連続でこんなところに投げ込めるなんて、今日の彼はすこぶる調子がいいみたい。
「もらいますよ?」
「どうぞ」
「よーし、アバさん! 追い込みましたよ!」
「へっへっへ、天下の名字もついにお棺入りやなあ!」
「……それより、直球だけ? 私はその魔球とやらを待ってるんだけど。もしかして、ハッタリかしら」
まだ勝負は決まってない。それなのに阿畑は、三振に切ったときの予行練習でもしているように喜んでいる。おめでたい人ね。その間抜け面に一発叩き込めたら、どれほどの快感があるのかしら。純粋に、子供のような疑問を解消すべくグリップを握り直す。安打製造機の電源なんて、切ってしまえ。
阿畑の表情がにんまりと歪む。子供顔負け、赤ちゃんのように感情が先走る彼が、さっきみたいに私を指差した。
「……見とけ、名字! これがワイの本気や!」
本気だなんて、わざわざ口に出さずとも物語られている。「先輩、オレはサイン出しませんから。アバさんと勝負してくださいよ」なんて、女房さんも止める気はない。私もバットを握る。掴んだのは、テープの中でも初めて触れた場所だった。
阿畑の手を離れたボールは、これまでと球速が違う。いいえ、それだけじゃないわ。私の目に映ったのは回転のないボール。こっちに迫ってくるはずなのに、テレビの向こうの世界のようなボール。迷子のように、右に歩いたと思えば左に歩いて。足跡のせいで、何個もあるような錯覚が私の目を覆うものだから、視界なんてもう私のものじゃない。占領されてしまった。
「今のは、見送ったんですか?」
かけられた声、弾かれるように見れば、厭らしくミットをど真ん中に置いた後輩が憎らしく笑う。
「……動けなかったわ」
「ナイピ、アバさん!」
「っしゃ! 名字三振ー! やったで茜ぇー!」
完敗だと思った。ナックルボール、いつの間にそんな球を習得していたのやら。確かに魔球だ、中に生き物でも住んでいるような球。にっかりと眩しい笑顔を見せる阿畑は、やっぱり楽しそうだった。同時に私も同じ顔をしてしまう。
なぜ?そんなのわからないわ。でも、すごく気持ちがいいの。どうしてかしらね。見たこともないボールを見たから、かな。だって、ナックルボールなんて投げられる人は聞いたこともない。プロ野球ですら、よ。
阿畑はこのボールをどんな気持ちで女房の彼と茜と作ったのかしら。いいえ、想像するまでもないわね。きっと野球が好きだから、よね。
「阿畑」
「お、なんや?」
未だにへらにへらと直らない阿呆面。本当、その顔面にピッチャー強襲でも打ち込めたら、どれほどいいのかしら。ふふっ、今よりも気持ちいいのかしらね。想像するだけで楽しくなってきちゃう。
でも、予定変更するわ。
「あなたのそのボール、私が運んでやるわ。……スタンドまでね」
そう、ピッチャーライナーじゃつまらない。どうせならホームランを打たれた時の顔でも拝んでやりましょう。
これまでの私とは百八十度、方向を変えた発言に阿畑は目を丸くする。
「なに寝ぼけとるんや。名字じゃホームランは無理やろお、いつも通りアベヒやっとけ」
「何言ってるの」
今なら、阿畑の言ってきたことを場外まで打ち返せる自身がある。初ホームランも夢じゃないわ。寝ぼけたことを言い出す阿畑に、私はだらしない顔を隠そうともしないで、人差し指を突き出してやったの。
「私はもう、安打製造機じゃあないから」
そして、私は目をぱちくりしている阿畑に背を向けて歩き始めた。まずは茜にでも話を聞いてみましょう。男よりも女の私の方が茜と仲がいいんだから。
電源の抜けた機械をバットでぶち壊してやる。口角が上がるのを抑えきれなくて、私は木がそうするように、思い切り空へ伸びをした。