短編

□消し忘れた火種
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棚から夏が降ってきたの続き


彼女は今日も今日とて、規模の小さい野球部のためにひとりせっせと働いている。マネージャーとしての仕事を消化するために。しかし、彼女は時々自ら火種を落としてしまい、消火が必要になるんだ。

ほら、わかるだろ。何もないところでつんのめった名字さんが、ボールの入ったカゴを盛大にバラまいた。それを見て、俺は振っていたバットを静かに下ろす。
そこへと歩み寄ろうとした時、チームメイトも同じく名字さんに足を向けていたのを見て、なんとなくだけれど体を急かした。

「相変わらずだなー、名字さん」

小さな手でひとつひとつボールを拾う彼女のもとにしゃがみ込むと、俺の登場に慌てるものだから面白い。いいや、飽きないっていうのかな。同じように膝を曲げて手を伸ばしてやると、彼女の顔ってば、今度は驚きに満ち始める。

「せ、先輩! いいですよ、練習しないと……!」

「いくらなんでも、これをひとりで片付けるのは大変だろー」

そんな顔を眺めていると、なんだか笑えてきてしまう。彼女をバカにするつもりはないのに。俺の頭の命令に逆らって緩みだす頬を隠そうと、彼女を視界から追いやった。彼女にはこんな顔、見られたくなかったんだ。その腹いせに、俺と対面したのは足跡のように続く白い斑点。わあ、こうしてみるとずいぶん派手にやっちゃったんだなあ。

彼女を見ずに足元からボールを拾い集めて、集めて。夢中になって繰り返していれば、チームメイトが俺という彼女のお手伝いさんを確認して、練習に戻っていくのが見えた。ネコの手さえ欲しいはずなのに、口から漏れたのは安堵の息。変だな、と思いながらもまだまだボールは足先から拾われるのを今か今かと長蛇の列で待っているわけだ、俺はその懐疑を遠投してやった。

俺の目が端っこに、端っこに、と追い出した名字さん。ふと、そんな彼女の手が止まっていることに気づいた。知らぬが仏、知るが煩悩だ。わかってしまってからは単純で、俺の意思とは裏腹に彼女へと顔を上げてしまった。

しかも、バチリと視線が交わるオマケつきだ。

名字さんの頬がみるみるうちに赤くなっていく。それを見ていた俺まで移ってしまうかのように体が熱を持った。

「あっ、え、えっと……! じ、ジロジロ見てごめんなさい!」

「い、いや別に構わないけど……」

いや、どうしてだよ。照れるのは名字さんだけで十分じゃん。なんで俺もこんなことになってるんだ。互いに赤く染めた手で、気を紛らわすようにボールを拾う。すっかり泥くさいはずの腕が体の炎を透かして、らしくないほど感情的になっていた。どうしてだ。

顔を背けても、頭の中に居座るのは恥ずかしげに朱を散らす名字さん。控えめな彼女なのに、俺から出て行こうとしないんだ。いつからこんな図々しさを覚えたのだろう。考えては頭を振る、それでも中身はこれっぽっちも変わらない。汗っぽくて、湿っぽいこのグラウンドには似合わない小さな少女がいるだけ。

ああもう、俺ってばどうしたんだよ。

「……やっぱり、先輩は優しいですね」

それなのに、名字さんは意地が悪い。誰もがいい子だと大同小異そう言うこの少女に、初めてそんな気持ちを抱いた。耳だけが必死に彼女へと向いていて、赤い赤い俺自身へのカモフラージュだった。

「そ、そんなことないって。これくらい、人として当たり前だろー」

「当たり前なんかじゃ……ないです」

「何言ってるんだよ、同じ野球部の人間なんだぜ。名字さんの仕事は名字さんだけがやらなきゃいけないって決まりもないし」

名字さんに背を向けたまま、口だけのキャッチボール。彼女がどんな顔をしているのか、微かにもわからない、わかろうともしない俺に柔らかい声が飛んでくる。軟式野球なんてしばらくやっていないけれど、簡単に打ち返せそうなそれがなぜか俺を責めた。俺が優しいということの一点張りで。

逆説のような奇妙さに、身体が徐々に消防の水を浴びて鎮火してきて。

意地悪をされたんだ、こっちだって対抗させろよ。へにゃへにゃのスローボールに金属バットで応戦しても、いいよな。不服反論もろもろを申し立ててやろう。手にボールをふたつほど取って名字さんに視線を戻した。

しかし、彼女はあの時、俺の中で何かが強く騒がしく破裂したあの時とおんなじ顔をしていたんだ。

「私、先輩の優しいところが……好きなんですもん」

……なんなんだ、一体。緩急?切れ味?そんなものを超越した変化球、魔球が襲ってきて、見る影もなく動けなかった。
ずるくないか。このバットより重いものが持てなさそうな女の子が、あんな見逃しするしか解答がないボールを投げてくるんだぜ。つい何秒か前、錆びた金属バットをバカみたいに掲げてた俺を叱ってやりたい。

名字さんの伏せられがちだった目が俺に合わされた。ポトリと無機質になった俺の手からこぼれたのは、ふたつのボール。再び焼けるように焦がされた俺の手とは対照的で、白いなあと思った。その白さを、誰にも汚されたくない。不意に突いてきた、不思議な欲だった。

これは、俺だけが知っていたい。

いつも追いかけている白いボールに囁かれたわけじゃない。頭で考えて出てきたんじゃない。もっと、胸の奥底、俺が知らない俺でも住んでいそうな、ずうっと深い俺のかたまりがそう言った。
そして、まるで目前に現れた魔球の後の得意球のように、俺は身体が先に動いていた。

「……あんまりそういうことは、言わない方がいいと思うぞー」

理由は知らない、置いてけぼりだ。俺以外には言ってほしくない。いつもは静かに黙っている心の俺が元気に騒ぎ立てるから、とっさに名字さんの腕を握った。細い。

俺と同じ腕だなんて呼んでいいのかためらうような女の子のそれを手にしつつ、彼女の目を見つめた。丸い瞳はかすかに潤いを帯びている、気がする。

「……先輩じゃなきゃ、こんなこと言いません」

弱々しく、それでいてまじりけのない澄んだ声だった。まっすぐと俺に向かってきたその言葉がゾクリと胸に刺さる。

日差しの餌食になった俺の腕と、真っ白な名字さんの腕、見た目じゃあわからないかもしれないけれど、同じくらいには熱くて。その温度に俺は参ってしまったんだ。なんでかって?そんなのこっちが聞きたい。

ダメージを受けたはずの胸が、お手上げのこの体温が、心地良いのはなぜかって。

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