短編

□大人になること
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夏も折り返しを過ぎた頃だ。仕事終わりにグラウンド近くを通った時、ようやく大人しくなった白灰のベースを眺めた。ぼんやりとその場に縫い付けられていると、寝そべっているその塁上に、私が以前着ていたユニフォームを身につけた男が重なる。ファーストは、セカンドは、ショートは。視線を動かすたびにホコリをかぶったパズルピースが手を繋いでいくのだ。それを絵空事のように味わっていた。私も、なりふり構わずに身を焦がした時期があったな。あれは遠い昔、まだまだ無鉄砲でなんでもできた時であったか。

そう思い出の蓋をほじくり返していると、脳裏にひとりの女性を思い出した。いや、思い出す、というのは語弊があるかもしれない。今や彼女は自分の帰りを日々待つ身である。私の頭に座るその娘は読んで名の通り、うら若き娘であった。私も同じくして青臭さが残る青年だった。野球以外のなにも知らない、十云歳の。

そういえば、今日はそんな彼女は生まれた日。青いあの娘とまたひとつ距離ができるのは、なんだか寂しいようで、幸せなこと。背中同士の気持ちを向き合わせて、さあ、これからのことを考えようじゃないか。最近はなにもしてやれていないんだ、年に一度のイベントごとくらい最愛の人の満面の笑顔を拝んでも良いだろう。少しばかり浮き立つ足で、グラウンドを離れたのだ。


さて、私が手にするものについてだが、つい先刻まではその場所争いを繰り広げていたカードがある。女性らしいアクセサリーと、乙女らしいクマのぬいぐるみだ。青コーナーと赤コーナーさながらに対照的な両者は、ゴングを合図にそれぞれの個性を私に振りまいた。仁義なく、ね。
もちろん、私は迷ったよ。迷ったさ。家で帰りを待つ女性に普段の想いを送るのも、頭に残る彼女と同じく時を巻き戻すのも、どちらも魅力的だと思うだろう?

そうして右往左往している私の足を止めたのは、先ほど見た濃く短命な記憶の象徴ってなわけだ。年甲斐もない私の腕に抱かれるぬいぐるみは、すこぶる機嫌がいいとは言えない。もう少し待っていてくれよ、今にお前がよく似合う彼女のもとに帰るから。
足早に歩く私の顔は、年甲斐もないこと違いない。これを彼女に渡したあかつきには、思い出話でもしてみようか。少年返りもいいところ、情けなく緩んだ私の頬を叱る大人はいないわけだ。

そのぬいぐるみには、幸福でも宿っているような気がした。後に私の手を離れるはずだというのに、その瞬間をまだかまだかと心づもり積もること忙しなく、果てしない。贈り物とやらはいつだってこうなのだろうか。いつも見慣れたドアにお菓子の国への入り口のような童心、高揚感を植え付けた。もちろん、それにおあずけをされて我慢できるほど大人ではない。沸き立つ子供心をそのままに、勢いよくドアを食した。

中から、物音に気づいたらしい足音が近づいてくる。それすら私にはこぼれそうなほど嬉しかった。母を縋る少年だ。

「あっ、やっと帰ってきたあ」

彼女は私を見ると、ほんのり赤い顔を綻ばせた。それが私と釣り合わず年相応で。やはりあの時の彼女ではないのだと、生唾を飲みつつ実感したのだ。

私の腕を引きこんだ彼女に着いて行くと、かなり豪勢に手料理を振る舞ったのだとわかる。もともと手先も器用で、家事もお手のもの。私がやれば丸一日はかかるだろうそれも、名前にとっては簡単なものなのだろう。

「ただいま、名前。今日は君の誕生日だというのに、遅くなって悪かったね」

「本当だよ、もうっ。我慢できなくてちょっぴりお酒飲んじゃったんだからあ」

「まあそう言わないでくれよ。ほら、誕生日おめでとう。これがプレゼントだよ」

「わあ、可愛いクマさん! えへへ、ありがとう!」

私から彼女の手へ移動したクマ。その似合うこと、似合うこと。相変わらず赤いままの彼女は、やはりまたひとつ女性として熟されているのかもしれない。

ふわふわ揺れる毛並みを撫でる名前を見ていると、後ろ指をさされながら置いてきたアクセサリーでも、なんでも彼女には馴染むのではないかと思えてきた。争いとは不毛なもの、両者手を取ることが一番の解決策だと気付かされて、今度はアイツも彼女に身に着けさせようと思ったのだった。

「嬉しいなあ、あなたからこんなにかわいいプレゼントをもらえるだなんて」

しかし、そんな平和ボケした頭はやがて破られた。

彼女は頬よりずっと赤く熟れた唇をぬいぐるみに寄せたのだ。その仕草が私の中で奮い立つ。いいや、奮い立たせられたのは私の方。たった一滴落とされた熱い雫が波紋を広げていく。手や足に伝わったそれはカアッと紅潮を写した。
いたたまれなくなりとっさにそらした顔、驚いた髪が遅れてついてきた。馬鹿者、足跡を残す泥棒があるか。もちろん、彼女は私の異変とも言える行動に気づいてしまう。

そっと寄せられる彼女の大人の顔。瞳が潤って、とろんと砂糖菓子のよう。愛しい女性の愛しい表情、今の私でも、過去の私でも、はたまた未来の私でも同じ反応をするだろう。不意に伸ばした手が熱く朱を透かす頬に触れた。

彼女が目を閉じて、私が近づいて。嫌でも情けない欲が顔を出す。このまま、彼女を自分色に染めてやりたい、身体の芯まで。感じるままに愛しいひとへと触れようとしたとき、なけなしの大人が見たのは彼女の腕に抱かれるぬいぐるみ。
愛らしい、くりくりとした目で皮肉めかして私を叱咤するクマは、忠犬のように主人を守っている。生命がないはずなのに、私よりよほど人間味のあるこの小さな騎士。彼に免じて、傾きかけていた欲をかき集めて回収した。

「名前、まずは着替えてくるよ」

彼女の肩をそっと押してやると、不服に染まるその女性らしい目。それだけなら可愛らしい、わがままなんて今日くらいはいくらでも聞いてやりたい。そんな気持ちになれるのに。フッと私の鼻を掠めたのは、アレの匂いだ、アレ。生きとし生ける大人がこのために仕事をしていると揶揄されるアレだ。酒だ。

こいつ、もしかして。そう思った時には遅い。彼女は彼女らしかぬ悪魔の笑みで、その澄んだ瞳を弧に歪めたのだ。ああ、まずい。そんなことを思う間もなく、細い腕が私の首に絡みつく。居場所を失ったクマがポトリと虚しく落ちた。

「……だーめ」

舌なめずりがペロリ、私の胸を擽った。恥ずかしそうに少しだけのぞいた口元のそれと、彼女の怪しく黒黒しい眼光。私の知る可憐な名前ではない、が、好奇心まで子供返りしたのかどこかでその姿を負けじと舐めいる私がいる。

だ、だめだ。あまりにも品がない。頭ではそう叫んでいるというのに、私には声が届いていない。

「ドキドキ、してるんでしょう? あなたのことならなんでもわかるもの」

「い、や、別に……」

「うそつき」

何でもお見通しというやつか、彼女は自身の顔を私とそれこそ交わってしまいそうな距離まで寄せる。色っぽい表情、視線に骨抜きにされた私はただのヒトのぬけがら。そんな私を彼女はいとも容易くソファーへと倒した。女の力で、だ。

「私の誕生日なんだから、私の言うこと聞いて」

倒れ込んでもなお近い互いの顔。酒気混じりの吐息が私の頬にかかる。同僚がそうしようものなら、迷いなく鼻をつまむはずだが、名前には媚薬のような甘さが忍ばされていた。手が意志を失い、頭が支配される。

「あなたがしてみたいこと」

彼女が小首を傾げ、髪までが色づいて揺れた。

「なんでも……して」

ピンク色の唇が私に囁く。水気を含んだそこがいやらしく誘惑してきて。ここまでされて据え膳食わぬ男はいるか?全国の男に問いたいくらいだ。
シュルリとネクタイを解き、下からというオスとしては屈辱的な光景だが、真っ直ぐと彼女を見つめた。私の目には獣のごとき輝きが宿っていることだろう。

彼女に手を這わせた時、床に転がったクマが私を愛らしく非難気な目で見た。私を叱る大人はいなかったはず。こんな子供じみたぬいぐるみさえ、立派な大人に成長させてしまうのだから、つくづく私の伴侶は恐ろしいと思った。

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