短編

□他人は自分を映す反面鏡
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いきなり環境が変わったらびっくりしちゃうもの、ですよね。それも、田舎から都会へと移り住んだりしたらなおさら。

引っ込み思案で地味な私。転校なんてしたら、お友達ができるかわかりません。期待より遥かに勝る不安とともに、教室に入ったことを今でもよく覚えています。自己紹介の時は、心配で眠れなかったツケが回ってきたのでしょうか。小さいとはいえあくびをこぼしてしまう始末。私に刺さるたくさんの視線に身震いしたものです。
しかし、そんな私にも幸運なことがありました。助けてくれた人がいたのです。その人は、猪狩守くん。となりの席の人でした。初めて都会に来ることへ心配ばかりする私に同調してくれて、いろいろ教えてくれた優しい人です。

彼のおかげで、上手くやっていけるかもだなんて思えるようになって。本当に感謝しなきゃいけないなあとひとつ横の席を見て思います。聞けば、猪狩くんは野球部に所属していて、中でもピッチャーとしてエースなのだとか。毎日練習が大変なのでしょう。それでも授業も文字通り全力投球なのですから、すごい人ですね。
この時間、イスから真っ直ぐ背中を伸ばして前を見据えることは、野球部の方にとって簡単なことではないでしょう。

「名字さん、どうしたんだ。何かわからないところでもあるのかい」

「ううん、なんでもないの」

「そうか、何かあったらすぐに頼ってくれ」

「ありがとうございます」

ここに来た当初はカチンコチンに固かった空気を、日々少しづつ、少しづつ柔らかくしてくれたあなたには、お礼が言いたいくらいなんですよ。サッと先生が書きなぐる黒板へと、顔を戻していった猪狩くん。その横顔に、せめてものお礼を綴りました。届かないとは思いますけれどね。まさに彼は私の恩人、いいえ、恩なんて一文字じゃ片付けられないほどの方なのです。

これは、授業が終わったころのことです。何も運動はしていないはずの身体に重くのしかかった疲労感。それを逃がすように、私は腕やら羽やらを伸ばしていました。
すると、どうでしょうか。規律正しく並ぶ机たちの間を掻い潜り、私の方に歩み寄る女の子たちがいたのです。

「ねえ、名字さん!」

「は、はいっ」

「ふふ、そんなに固くならなくてもいいよ。私たちね、前から名字さんと話してみたいなあって思ってたんだ」

「そうそう。名字さん、猪狩と話してるのを見たけど、すごく優しそうだもん」

女の子たちは、わらわらと私の周りに集まってきました。今まで、私の腕しか置かれてなかったその机は、初めて私以外の女の子の肌に触れたのです。
彼女たちは、人のいい笑顔で私の硬直した身体を解きほぐしてくれました。

「私と話……?」

「うん、名字さんと」

「結構クラスでも多いと思うよ。話したい人」

それはそれは、猪狩くんに負けないくらい。女の子の微笑みって温かいものなのねと身を委ねながら、私も同じ表情をしてみせました。
すると、彼女たちは互いに顔を見合わせてますます頬を綻ばせるものですから、彼女たちと私の距離はなんだかキュッと狭くなったような気がしたのです。

それから、彼女たちは休み時間の度に私のもとへとやって来ました。たくさんの面白おかしいお話を片手に。とっても気さくで、楽しくて、私は授業が終わる時間をいつもいつも心待ちにしていました。
しかし、私なんて彼女たちのように人付き合いが上手なわけではありません。手にしている、人との距離を縮めるアイテムは多くないのです。私は彼女たちにそれをたくさん、たくさん費やしました。

そうすれば必然的に距離が離れていく人がいます。結ばれていた紐、その時間が経って解けるように。
それは猪狩くん、今私がこうして女の子達と一緒にいられるのは間違いなく彼のおかげでもあります。だって不安を追い払ってくれて、知らず知らずのうちとはいえ私と彼女たちを引き合わせてくれたのですから。

最近はめっきり話すこともなくなったけれど、お礼くらいしなきゃいけないわよね。そう思った私が、猪狩くんを呼び出そうという考えに至ったのは簡単なこと。ですが、多忙な彼に置き換えると難しいことでした。

困りに困った結果、野球部に顔を出してみるという地味な私らしかぬ大胆な手法を選択。授業が終わった後、帰宅の波に逆らうことを決めたのです。

終業の鐘を無視するように向かった野球部のグラウンド。初めて来た私は、驚愕の思いでいっぱいになりました。お昼ご飯を挟んだはずの授業なんて朝ご飯前、ここからが一日の始まりであるとでも言いたげにハードな練習を熟す部員のみなさんが、そこにいたからです。
あの猪狩くんが片足を上げたと思えば、ビュンと矢のような速球。私では見送ることすらできないでしょう。それをぼんやり眺めて呆気にとられていると、その本人と目が合ってしまいました。

「……名字さん」

彼はなんだか、機嫌が悪そうに見えます。……どうしたのでしょう、ちょっとだけ、そわりとたった背中の鳥肌。それを隠すように、私は彼に微笑みを見せました。お邪魔しますね、と。でも、彼は全然表情を変えません。

「あ、あの、猪狩くんにお礼を言いたくて」

「お礼……?」

「えっと、あなたのおかげで今の学校生活があるから……ありがとう」

訝しげに眉を寄せられながらも、なんとか伝えられて。私はてっきり、この後の猪狩くんはその窮屈そうな眉間をフッと下げるものだと思っていたのです。でも、現実はそうそう思い通りになりませんでした。

「……だから、なんだ?」

彼は、鋭い眼光で私を射抜いたまま。何一つ変わらない不機嫌っぷりです。私はわけがわからなくなってしまいます。ひょっとして、彼の虫の居所が悪い時に声をかけてしまったのでしょうか。それとも、私の言動が癪に障ってしまったのでしょうか。いろいろ考えてみましたが、一向にわかる気配は見えません。私ができたことと言えば、口をポッカリと開く、間が抜けた真似事だけです。

「僕は、君のことを考えていろいろ教えてやったつもりはない。あくまで僕自身のためだ」

「い、かりくん……?」

「別に……君が礼を言うことじゃあないんだよ」

慎むわけでも謙遜するわけでもなく、ただただ猪狩くんは淡々と話しました。まるで、誰かさんの本でも読んでいるように。それほどまで、彼の中にはどんな感情があるのか……私には計り知れなかったのです。
彼は、私に投げていた針のような視線を反らしました。彼の左手にいるボールが不釣り合いに白く輝いています。

彼はそれを指先でくるくると回したり、自在に操ってみせました。私はそれを何も映ってない目で見ているだけです。今ここにいる猪狩くんは、私の知る猪狩くんとどこか違う気がしました。あの、私に優しくしてくれた猪狩くんは、ボールみたいに彼の指の一部に過ぎなかったのでしょうか。

私の目に映る彼は果たしてありがとうと言いたかった人なのか、ほんのりと浮き上がっては消えました。でも、とたんに私を襲ったのはばつの悪さです。私、何様でしょうか。そんなこと考えちゃ面の皮が厚くなってしまうわ。そう思ったから、すぐに笑顔を繕いました。

「でも、転校したばかりで嬉しかったのは本当だから。なにか私にもできないかな」

「ふうん、キミは嬉しかったのか」

やっぱり、猪狩くんは微笑すら見せず終いです。

「じゃあ、僕を喜ばせてくれよ」

なんて、思った時。不意に彼は目を細くしました。笑顔は笑顔でも、冷笑、薄笑い。彼の中で欣喜の種など一粒もないことはその顔が明らかにしています。ああ、だから喜ばせなきゃいけないのねと、のんきなことをのうてんきらしく巡らせた私。
この機嫌に関してノーコメントを貫くほどにわかりやすく不機嫌な猪狩くんに、一体なにができるというのでしょう。指を頬の支えにして頭をひねりますが、そう易々と解が導けるはずもありません。

「……ううん、なにをしたらいいのかしら」

ひとりごとのような質問は、彼の口元を上げさせました。さっきより私に近い表情で笑う猪狩くんが静かに口を開きます。

「それで、いいんだよ」

満足そうですが、その口はちっとも私に寄り添おうとしてくれません。彼の言葉の意味が何を指すのか、微塵にもわからないのです。ほんの少しだけ眉を寄せた私を見て、いよいよ彼はえびす顔にまでなりました。

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