短編

□これから君は人になる
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みなさんは知っていますかね。人の上には常に人が立つ、という誰が作り出したでもない法則を。そんな世の造りを理解し遂行できる者はいつでも崇められ、尊びを受ける。非常に簡単なことでしょう。どんなに集団が小さかれ大きかれ同じことです。僕はその原理を合理的に実行しているだけ。

神はすばらしい方だからみな平等に創造される、と?クックック、いやですねえ。神なんて存在するはずありませんよ。それにもしそれが真実であれば、神は戦争や不慮の事故で罪のない人々が命を落とす姿を指を加えてご覧になっているということなのですよ?そんな神はいようがいまいが、人徳を備えた方には見えませんが。
つまり、所詮はいかに人をヒトとして扱えるか、たったそれだけのことなんですよ。


帝王実業高校の練習時、そのフェンス越しに毎日と言っていいほど顔を出す娘。もちろん、男子校であるここの生徒ではありません。では彼女は誰なのか。長い金髪にエメラルドの宝石のような瞳、そんなものは世間にやたらめったらあるものではない、珍しいものだと思います。

そして、そのフェンスに毎日と言っていいほど足を運ぶ男、帝王実業野球部に所属する僕らのひとつ年下、友沢亮くん。つまるところ、彼女は彼の実姉なのです。僕から言わせれば友沢くんは目の上のたんこぶ、鼻の上のふきでもの。チラチラと視界に入っては鬱陶しいものこの上ありません。

「亮、しっかりやってる?」

「……今日もわざわざここまで来たのか。暇だな」

「そう言うなって。弟の頑張りを見守るのもお姉ちゃんの役目よ」

「聖タチバナ学園高校からここまで距離があるだろ」

「平気平気、バイトの通り道だから」

彼女は、彼にそっくりな目を細めて笑います。その姿に女性に飢えた野球部員が手を止めたのは言うまでもありませんが、その中で僕だけは彼女を他の部員とは違った目で眺めていました。

それには理由があるのです。

端的に言えば、彼女にとって僕は良き相談者なのです。複雑なものですよ、彼女の家庭環境は。彼女の母親は容態が思わしくないそうで、その上まだ小さい弟や妹もいるといいます。長女である彼女と長男である友沢くんがアルバイトで生計を立てているようなのです。

美しき家族愛ですね、いやあご立派、ご立派。しかし彼女もまだ僕と同じ高校三年、学校とは似ても似つかない社会に出ることは骨が折れるのでしょう。ですが、下の弟くんは野球をやりたがっているのに、アルバイトも掛け持ちしている。姉として彼に弱音など吐けないのでしょう。そこで、僕ですよ。

たったひとこと「僕でよければなんでも聞きます」と社交辞令で痛いほど耳にしそうな言葉を並べただけで、彼女はその翡翠の瞳を潤ませて微笑んだのです。

それからというもの、彼女の苦悩を受け止めることと引き換えに、僕は彼女の心に手をかけていきました。僕の言うことを真正面から信じる真っ白な彼女、それはそれは染めやすかったものです。ええ、特筆することでもありませんでしたね。

彼女はよく動いてくれました。弟くんがプロ入りを目指していることを話せば、野球に集中させるためと友沢くんのアルバイトを減少させ、自らその残り分を担ぎました。そうして、彼女は徐々に帝王実業高校に顔を見せなくなったんですよ。

あの目立たないヤツとメガネの後輩が「友沢のお姉ちゃん、今日は来ないのか?」なんて友沢くんに聞いている姿を見ると……クックック、たまらなく笑えてきますね。


ある時、彼女は僕を呼び出しました。場所は近くの公園だそうです。また例の相談とやらでしょうか。まあ、僕は構わないのですがねえ。なんと言っても、彼女を支えられるのは僕以外にはいないのですから。あの天才だとかほざかれている弟くんですら、彼女のこの面は知る由もない。

彼がこのことを知ったらどう思うのでしょうかね。滑稽さと愚かさで喉がかゆくなります。しかし、これから目にするのは例の彼女。僕は躍起になって笑顔を作りました。

夏の蒸し暑さが夜に冷やされていて、非常に気持ちがいい。これほどまでに風が身体を通り抜けていくのには別に楽しみなことでもあるのでしょうか。
公園に足を踏み入れると、ああ、いました。制服ではなく女性らしいワンピースを纏った少女が。友沢名前さん、その名はすこぶる耳障りなはずですが、今は気になりません。

「名前さん、なんでしょう?」

「あの……えっと」

僕に気づくと揺れるスカートの裾を握る名前さん。ふっと逸らされた目は緑色のはずですが、なぜだか赤みを増している気すらします。水っぽさを帯びたせいでしょうか。忌々しいことはなはだしい弟くんとよく似た色の髪が風に靡きました。

彼女は意を決したように、僕を瞳に映します。そのエメラルドグリーンの宝石には彼女のための追従笑いがいました。おやおや、こんな顔を差し出すだけでいいなんて朝飯前もいいところですね。抱腹絶倒してしまいそうですよ、まったく。

「その、蛇島さんに伝えたいことがあって……」

「……ほう」

伝えたいこと、ねえ。コクンと頷く彼女はその名の通り、立派な女性でした。口より数歩先走った頬、涙ぐんだ感情的な瞳。そこまでされて何も気づかないほど、僕は鈍くはありません。……あの弟くんのようには、ね。彼は今もなお何事もなく過ごしているのでしょう。

「私、蛇島さんのことが……好きなの」

頭に浮かべていたフレーズとほぼ同じものが囁かれました。恥ずかしながらもはっきりした声。彼女の赤い顔を隠していた長い金髪、風がふんわりとさらいます。私は彼女を安心させるような笑顔をこぼしたことでしょう。
ようやくこの時が来たと思いましたよ。あの憎き友沢の姉を手中に収めたのですから。将棋で言えば、飛車、角、金、銀すべて手に入れたようなもの。周りに誰もいない王将など敵ではありません。

僕は、彼から寝返ったそのコマをさも大切そうに抱え込んだのです。彼女が息を呑む音が聞こえました。「僕もですよ」と息を返せば、細腕がおそるおそる僕に縋ってきます。

彼女から甘い香りがしました。まるで彼女のようだ、何も知らない果実、汚れのない香りです。さあ、これからこの甘い甘い彼女をどうヒトとして扱ってやるか、どう存在意義を与えてやるか。彼女を胸に抱きながら、抑えきれずに口角が歪むのです。

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