短編

□雨も冷ませず熱情
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たまには、彼女と過ごす時間を作ったらどうか。

これは、早川あおいから言われたことである。バッティングピッチャーを務めた後に「明日とかさ」と下げられた髪を後ろ手で掻きながら。
突然の指南に、俺は首を縦にも横にも振ることなく、冗談味などまったくない彼女の目を見ることしかできなかった。

早川の言う彼女とは、言わずもがなアイツのことだ。一線引かれたその先で主に橘を眺めている女、名字名前。彼女と交際を始めたのはそう近ごろの話ではなかったが、言われてみれば俺と彼女の関係は不思議なものだった。彼女に対して興味がないわけではないし、むしろ恋人という立場上、当たり前のように他の女よりはある。しかし、恋人らしいことはあまりしていない。

時間を割く事項は、家族に付随してバイトのことも、野球のこともある。高校生としては並よりも多忙な自覚をしながらも、無理な話でもないし、俺がしたいから時間を差し出しているが、考えてみればわかることだ。普通の年頃の女であれば、不安を覚えたり他の男に揺らいだりするのに要する時間を優に超えている。
そんな事情にも理解のある名字だから、もしかすると無意識のうちに彼女を蔑ろにしていたのかもしれない。最近は部活と学校以外で会うこともなかった。

早川に片手を挙げて御意を示すと、彼女は満足げに微笑んだ。名字という他人のことにそんな顔をできるのは、名字の人望か、はたまた早川のお人好しか。葉羽といい矢部といい進さんといい、ここにはおかしな奴が多い。

後日、早川の教え通りに名字へ誘いをかけた。ただひとこと、時間が許すのであればと言葉の飾り方も知らずに吐いたものだったが、彼女は目を丸くしたのち、頬を膨らませるように赤く笑ったというのだから、こんなことで幸せそうな顔をする名字に申し訳ない反面、純粋に幸福が満たした。

だが、放課後に彼女と横並びに歩いていた時のことだった。橘がどうの、六道がどうのと楽しそうに話す名字が突然口を閉じて空を見上げた。特に意識もせず同じことをすると、ぽつりと俺の鼻に体温には冷たく感じる何かが降る。雨か、そう気づいてくれるのを待っていましたと言わんばかりに、もう一滴、一滴と徐々にそれは量を増やしていったのだ。

「どうしよう……雨が降るなんて、天気予報じゃ言ってなかったのに」

困った、と思考を凝らす名字にも、天からは容赦ない。ここは住宅街、屋根でも借りようとすれば不審者扱いだ。
ここからは名字の家も俺の家もそこそこ距離がある。しかし、だからといってここに留まっているのも得策ではない。俺の家に向かうべきだろう。

「名字、とにかくこっちだ」

戸惑う彼女の手首をひったくると、どこまでも続く雨からなんとか逃れようともがく。走り出した足よりなにより、名字の冷蔵庫にでも入れていたような腕に気が取られた。俺より、何倍も傷みやすい身体なのだろう。早くしなければ風邪をひいてしまうかもしれない。


お世辞にも大きいとは言えない家の前。「ありがとう、助かったあ」と微笑む彼女の腕を離したはいいが、想像以上に時間がかかってしまった。名字は額にはりつく黒髪を手で丁寧に払っているが、そんなことをしている場合ではないことに、気づいてないのだろうか。

頬をほんのり染めて思い思いに揺らめく黒髪をしつける名字にも、どこかいつもより大人びた甘美さがあるのは確かだ。しかし、俺の目線は、今の彼女にとってノーマークであろうその小さな身体に縫い付けられていた。雨水をたっぷり浴びたシャツに隙間はない。つまり、俺が見ているこの姿が、名字そのものと一致するということ。さらに、俺をもてあそぶようにその身体は罪を重ねている。透かされているのだ、ところどころに見える肌の色素と胸元の淡いパステルカラーが。

男とは悲しくなるほど単純なもので、しばらく忘れていた熱さが全身を黒焦げにした。空から打たれて温度を失くしたはずの手や頬はすでに、熱湯をかけられたよう。わかっていない彼女には忠告してやりたいが、言えない。とても言えない。くそっ、今すぐにランニングでもしに行きたい。邪念ばかりが膨らんでいく頭に、ここ周辺の雨がすべて集中すればいいと思った。

「でも、びしょ濡れだね。ついてないなあ」

「しかたないだろ。天気だからな」

「……せっかく、一緒にいられるのに」

それなのに、彼女はなんなのだ。不服そうに眉をひそめて空を見上げる名字の頬を、湿り気のある黒髪がいやに古典的で根本的な装飾を施す。極めつけには、その言葉。彼女はここぞという場面に特大砲を放つ、四番打者タイプなのか。意識も計算もないチャンスに強すぎる力は、チームメイトで彼女の友人である小悪魔など比にならないほどに強大で、打ち勝つすべなどなかった。

彼女を家にあげると、まずは風呂に押しやる。これ以上は見ていることもままならない。「ありがとう」と微笑んでいた名字に俺の下心は浮き上がってないらしく、それだけが救いであった。

ひとり、タオルを羽織りながら床に腰かける。聞こえてくるのは、うすい壁越しのシャワーの音。その毎日聞くものすら、彼女が絡むと既視感をなくしてしまって俺の聴覚を誘惑した。
燃え盛る炎に耐えしのぐ。ただひたすらに目を閉じて、なにも考えないように、頭の中を掃除するように、そう必死に念じた。


うちに女物の服といえば、朋恵のものしかない。しかし、その子供服を貸すことはできない。だから、しかたなく、本当にしかたなく俺のものを貸すことになったのはよくわかる。よくわかる、のだが。

「やっぱりこうしてみると、友沢くんは身体が大きいんだね」

高校生男子の中じゃ、身長も体格も上の上に入る俺の服をまとう名字は、まるで身を守るように両腕を交差していた。ぴったりと肩に固定された手のひらは、動くことを許されていない。理由は簡単なことだ。私服というものを数多くは持たない俺が彼女に貸せるものといえば、野球が絡んだスポーツウェア。俺ですら空気の余地があるそれは、名字の肩をすり抜けてしまうからだった。

俺であれば、二の腕が半分隠れる程度の袖。しかし、彼女が着るなら別物だ。すっぽりと覆われてしまっている。肘から伸びる腕は頼りなくて、ウェアと相性が悪い。

そのはずなのに、俺はその姿に骨抜きにされていた。自分で動くことを認められていない身体は、鎖で彼女へと縛られている。ぐるぐる巻きもいいところだ。そのくせ、不埒な熱さが俺を蝕み始めて、鉄まで溶かしかねない。男であることを初めて後悔した。

「友沢くーん?」

「……す、すまない。どうした?」

「なんだか今日、ぼんやりしてるね」

俺には、珍しいなあと笑う名字の真意がまったくと言っていいほどわからなかった。尻尾すら掴めない。なぜ、この状況でそんな表情ができる。彼女なんて俺の片手でどうにでもさせられるが、彼女は指一本使わずに、俺を抜け殻にしてみせた。女とは恐ろしい生物だ。

「こんな友沢くん、私しか知らなかったらいいなあ……なんてね」

照れ笑いをした彼女と目が合う。その途端に機械化した身体が動いた。意志もなく、意識もなく、ただ頭から足を貫いた電気が動かしたのだ。床にぺたりと座り込む名字の腕をとる。

驚いた彼女が小さな悲鳴をあげた。しかし、それすら俺をショートさせるだけ。遠くの世界に行ってしまったような頭で名字の顔をのぞけば、涙に濡れたと見えなくもない瞳とかち合う。シャワーを浴びたせいか、俺にこうされているせいか。考えようとしたが、都合のいい脳みそはバチッと停電のごとく思考を遮断した。それと引き換えに湧きあがってきたのは電球なんかよりずっとずっと熱い感情。

ああ、このまま彼女を自分のものにできたならいいのに。付き合ってるだとかそんなものは遥か遠く一陣の風、麻酔のような痺れが身体の芯をつついて止まらない。
恍惚とした欲に胸ぐらを強引に掴まれた俺はまばゆい肩を押したのだ、その床に。

「あの、えっと……」

名字の腕が服から離れた。恥ずかしげに隠れていた彼女の身体がほんの少し、ほんの少しだけ蛍光灯の光を見て目を細めている。その光景といえば、新雪、深雪である。足跡のない白銀は、俺の好奇心なんて呼ぶにはおこがましいこの感情を火達磨にしてみせた。ボウボウと燎原に姿を化した俺を彼女の融雪が誘う。

そっと指が冷えた鎖骨をなぞると、ずいぶんと温度差があった。本当に彼女を溶かしかねない、そう危惧するほどだった。桃源郷なんてものは信じたことがない、しかし白桃のような水水しい彼女を見ていると、それも存在するような気さえしてくる。

「と、もざわ、くん……」

しかし、だまし討ちかけるかのようにか細い声が俺を責めた。見れば、一驚かと思われた名字の表情はいつしかウサギの狩猟でも連想させるような怯えきったものになっているじゃないか。気づいたと同時に、俺の燃えに燃え盛った心臓は水をぶちまけられたのだ。サァッと全身の体温が罪悪感に変わる。
彼女は水浴びをしたウサギ、ブルブルと小さく震えている。いや、水浴びなどと言うのには語弊があるな。そこにさっぱりとした表情は一ミリも見えない。

途端に、俺の中の名字名前が透けて消えそうになる。その様と言えば、どう表現していいものか。この世にひとつしかない宝物を崖から落としてしまうような、ゾッとした悪寒、極寒が俺を襲った。彼女がそれを醸し出していると思うと今しがたより恐ろしく感じた。そばにいてくれ、と切に願った。感情に身を任せ、冷え切った彼女を自身の拙い体温で力いっぱいに抱きしめた、抱きしめたのだ。

「……すまない」

口下手な俺はこれが限界であった。ただ、俺にとってひとりだけの存在である名字が消えてほしくない、そう祈るように彼女にしがみついた。そんな俺はさぞかし滑稽だろう。彼女の色をここまで薄めたのは紛れもなく自分自身なのだから。

しかし、彼女の非力な腕はそれでもなお俺の背中に通されたのだ。静かに鎮座した体温は桃やら雪やら容姿にばかり気を取られていた俺を包み込んだ。彼女は知らぬ間に雪を溶かしていたのだ。そっと黒い絹糸をかき分けて光る黒い瞳をのぞけば、彼女は微笑んでいるじゃないか。少しだけ疲れの見える顔で。

「ううん」

そして、ニコッと俺の胸にも砂糖を散らした。

「私こそごめんなさい、ちょっとびっくりしちゃって」

そんな彼女がひどく美しく見える。俺は思いのまま手繰り寄せ、再びその黒髪に手を回した。胸の中で小さく動いた名字に、その小さくも俺の中で強く輝く存在を知らされたのだ。いつしか、火柱をあげていた思いは暖かな風へと変わっていた。


また後日、制服のリボンを家に置いていってしまった名字にそれを学校で手渡せば、なぜか早川に「ぼっ、ボクはそこまでのことは言ってないからね!」と真っ赤な顔で言われた。よくわからんが、そう言われた。
 

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