短編
□クレオパトラに幸せを
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弟は僕から離れた。プロになっても、共に野球をするものだと思っていた僕からしちゃ、まさか日本まで出ていくものだとは思わなかった。弟のたくましい姿に嬉しいような、寂しいような複雑に絡んだ兄心を感じつつも、僕が彼の道に干渉することはもうないと背中を見送ったものだ。
しかし、こんなことになるとは思わないだろう?
僕は今、とにかく虫の居所が好かない。すこぶる悪い。気に食わない。その原因は僕の目の前に座る今しがた出会った彼女だ。間に銀河ひとつ挟むほどに大和撫子とはかけ離れた金髪の女、愛嬌のある笑顔を見せつけてくるものの、僕の中の虫は揃いも揃って彼女を威嚇した。
微笑む女と仏頂面に青筋を書き足した僕、こんな状態で初対面らしいのには理由があるんだ。どうしても、どうしても理解できない理由がね。この女、ただの女であればよかった。とてもよかった。それならただの目の保養、日本じゃなかなかお目にかかれない美人さんとの遭遇で済んだ。しかし、彼女と出会ったのは街中じゃないんだ、僕の家なんだ。
彼女、僕を見るやいなや何をしてきたと思うかい。「ハーイ、オニイサマ!」と抱きついてきたのだ。考えられるか。いいや、考えられない。何度でも言うぞ、彼女とは今しがた初めて出会ったんだ。
つまり、この外国人は進が連れてきたんだよ。考えたくも認めたくもないけれど、進が将来を共にする人という意味合いでね。当の本人は席を外していて、この奇妙な空間が作り上げられている。
「私、日本のことを勉強してきたの! ビッグブラザー、オニイサマになるのよね!」
「ならないよ」
「ワオ、ドラマで見たことあるわ! ヨメイビリ!」
「何を言ってるんだキミは」
「ザッツ、ミッション……!」
やっぱり、僕が普段この国で見かける女性と同じ生き物だとは思えない。日本の女性は、ぷっくり膨らんだ唇をペロリと意地悪げにいじったりしないぞ。品がないはずの行いなのに、容姿のせいかいやに似合っているのがまた僕の虫たちを騒がせる。
なぜ進は彼女を選んだのか。この三日で飽きてしまいそうな美人に女性的な魅力は嗅ぐことができても、添い遂げられたいと思える色香はない。
「はあ……」
「オゥ、ハプニング?」
そのハプニングがキミなんだ。そうはっきり言えたらどれほどいいか。この天真爛漫な彼女へ、いくら言ったところで労力のムダだろう。こんなことならチョウのように花から花へ移るその姿を、苦虫を潰しながら眺めている方がマシ。なんでもないと蛾でもはらうように手を振った。
しかし、彼女はさっきまで僕の目も気にしないで花畑にいたのに、突然僕の前に戻ってきた。ムンと口をひん曲げて。
「マモルもなのね」
彼女の言おうとしていることがわからず、顔で怪訝さを表現することしかできない僕。「トドノツマリね」異国の空気と言葉を読むことを覚えたらしい口はまだ機嫌を損ねているらしくへの字。外国人にしては綺麗なひらがなだと思った。
「人のことばっかりよ。自分のことはナンデモナイ、ナンデモナイ」
「……まあ、大したことじゃないからね」
「ススムもいつも言うの。ボクよりナマエだよ。ダイジョウブ?」
弟の真似なのか、ハスキーに音を下げた声。ねっとりとした日本語で、僕らとは色の違う眉を寄せる。
「ススムもマモルも、ダイジョウブじゃないから」
そして、彼女は僕の真似をするんだ。艶めかしい唇でフッと小さな息のかたまりを漏らした。とどのつまり、ため息だ。
「これ、するんでしょう?」
「まあ、間違ってはないね」
「日本じゃ、ハッピー、逃げるって言ってたわ」
「……まあ、間違ってはないね」
なかなか勉強しているらしく、僕はぐうの音も出ない。いや、とくに異国出身の彼女と大人げなく張り合うつもりもなかったが、素直に驚いたのだ。
僕たちからしたらよっぽど派手に見えるナマエさんが、まさかここまで生真面目に日本のことを知っているとは思わなかったから。
「ススムも多いの。ハッピーたくさん逃げちゃうわ」
それに、彼女は僕よりずっと厚い瞼を据わらせた。言葉だけ聞けば、おどけて見えるかもしれないが、とんでもない。ジョークが抜けた外国人の顔は、やはりテレビや雑誌でしか見ることのできない美しいもので。
「……私がチェンジしてあげられたらいいのに」
日本人離れしたビー玉の瞳に影を落として呟く彼女は、紛れもなく外国人であるはず。
「進が、心配かい?」
「当たり前でしょう! ススムがハッピーになれるならなんでもするわ!」
しかし、ここまで日本人らしくなくて、日本人らしい人はいるだろうか。
僕の質問は怒らせるほどに簡単だったのか、彼女は顰めた顔で睨みつけてきた。やはり、白すぎる肌といい、金色の髪といい、僕らとは違うんだ。違うのに、僕らよりよっぽど、僕らのようだ。
「……ナマエさん」
だから、腹がたったと僕は思った。波風立たない胸の中で自ら地団駄を踏んでいる僕は、なんだか必死だった。悔しいから、意地悪をしてやりたくなったんだ、きっと。
はい、と二文字で返事をした彼女は真剣な眼差しをしていて。そこに進がいるのは確かだ。
「進は日本人だ。だが、ナマエさんは違う」
そんな彼女に、僕は毒を塗り込んだ吹き矢を刺す。小さい傷口だが効果は底知れないだろう。弟の決めた女性にここまでする僕はひどい兄だろうか。
でも、不思議と僕はまっすぐナマエさんをのぞくことができた。後ろめたさも罪の意識も、これっぽっちもなく。彼女は、太陽のようにさんさんと微笑むことでそれに応えるのだ。
「フフ、でもススムのことをここまで愛してるのは私だけよ」
僕は、驚きもしなかった。ただ、ただ、つくづく、モッタイナイと思うだけ。もったいないほどに、進にお似合いで、似合わない女性だと思った。
僕はこの陽と陰のような二律背反が交われば、なんて非現実的なことを妄想してみる。それならどんなにいいだろう。
つまりだ、彼女は哀れなんだ。そのはずなのだけど、とても彼女が悲劇のヒロインだなんて思えない。案外、哀愁に情移りしてしまうのも日本人だけなのかもしれないと僕は思った。いいや、そうであれと願った。