短編

□常軌を逸した筆の沙汰
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長い黒髪が揺れる。あわせて、紺色のスカートのヒダが揺れる。淡くて甘い香りが僕の鼻を掠めた。僕の横をすり抜けた彼女は、くるりと振り返って僕に微笑む。髪からのぞいている柔らかそうな頬、小さめの鼻。

ここに綴りきれないほど、それほどに僕は、彼女のことを知っているんだ。誰よりも、だ。ずっと、ずうっと彼女のそばにいたのだから。

「進、おはよう!」

「おはよう、名前」

いつもどおりの挨拶を交わして、いつもどおりの笑顔を見せて、僕たちはいつもどおり、高校へ向かう。いつもどおりの日だ。家が隣同士、いわゆる幼なじみ。名前は、小さいころから野球をしていた僕たちを後ろで支えてくれた。
支えてくれた?いいや、違う。支えてくれているんだ。今だってそう。彼女は誰に言うでもなく、当たり前のように野球部のマネージャーになった。
なにも不思議なことはない。当然のことなんだ。だって、僕らは一緒にここまで来た。これからも一緒に歩んでいく。ねえ、振り返った僕たちの足跡が証明してくれているでしょう。

名前のことで僕の知らないことはない。兄さんが知らない名前のことだって、僕は知っている。僕と名前は同い年。年の違う兄さんより親密なのは、言わなくてもわかるよね。
二人で肩を並べるのも、彼女を視界に映したのも、僕が一番多いんだ。制服から伸びる手に触れたのも、頭を撫でたのも。

なんてことはない、通学路の上でのこと。薄い日差しが注ぐのどかな風景が、まるで画家に描かれたように色をつけていた。
そんな美しい絵は美術館にでも飾られて、永遠に誰の手も触れられないものになる。僕ら以外の他の誰もが、絵を尊び、感嘆を漏らし、手を叩く。

「あのね」

それなのに、それなのに、ね。

「私……気になっている人がいるの」

触れてはならない審美に手をかけた奴がいるんだって、さ。

名前は僕が隅の隅まで馴染みも覚えもある顔で、僕が馴染みも覚えもない顔をした。はっきりそうだと思えた。同時に、僕が見たことのない名前の顔があることに驚きもした。

「そうなんだ、どんな人なの?」

「へへ、野球部の先輩……」

にっこりとした顔を貼り付けた僕の頭に、ひとりの男の人が浮かぶ。きっとあの人、兄さんと同じクラスの、あの人。野球に熱心で、まっすぐで、他人に干渉なんてしない兄さんの気すら引いてしまう。そんな可能性の塊のような先輩。

なるほど、名前はあの先輩が気になるんだね。

僕はコクコクとしたたかに相槌をうつ。もちろん彼女と同じ顔、口元をピンと張る歪な顔をすると、憧れの輝きで目を細めた名前は自ら嬉しそうに「それでね」と話を切り出すんだ。

「……矢部先輩とかに相談したら、手伝ってもらえるかなあ」

照れくさげに笑う彼女を目に映しながら、僕の脳裏にはあのメガネが似合う先輩が浮かんだ。決して兄さんほどの才能があるわけではないけれど、彼も名前が気になっている先輩と並ぶ野球バカ。
あの人に力になってもらおうなんて、彼女にしては上手いことを考えたんじゃないかなあ。

「うん、いいと思うよ。矢部先輩は後輩思いだしね」

「やっぱり?」

「あの人なら、先輩を呼んだりできるよ。きっと」

「ええ……! ふ、ふたりきりなんて死んじゃうよ!」

ピンク色の頬に赤みがさす。先輩のことを考えている名前の顔は、いわゆる可愛らしいっていう顔。うん、わかっているよ。先輩の話題だから、そんな顔をするんだよね。

でも、僕はそれを放っておくほどバカじゃあないんだ。だって、さっきも言ったでしょう。絵画は、誰の手も触れられないものになるってね。

太陽の光が彼女の髪を照らしている。なんて気持ちのいい風景なんだろうね。僕の心も同じ光が差し込んでいたんだ。こんな素敵な一枚の絵に、黒い暗雲が流れたらどうかな。インクがこぼれたらどうかな。

僕の肩よりずいぶんと低い名前と学校へと足を進めながら、僕の頭の中は大小まちまちの積み木をああでも、こうでも、と重ねていた。
ああ、だめだめ。僕、こういうの好きなんだよね。いろいろ考えること。九人の守備に対して、ただ一人のバッターを追い込むことに似ている。僕は貼り付きの顔を溶かしてしまった。口角が上がってしかたない。

彼女は幸いにも僕に気づいていなかった。僕がそうであるように、先輩でいっぱいだからだ。

そうだ。まずは、矢部先輩に手伝ってもらおうかな。あの人なら、先輩を呼んだりできるよね。きっと。
 

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