短編

□時計の針は動き続ける
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 遠くで見てた、ずっと好きな人がいた。友達ではないのだけれど、その人のことは知っていた。
 私の高校からそう離れていないところに、野球の名門である男子校がある。帝王実業高校、いかにも強そうな名前のそこは、私が部活を終えて帰るころ、誇らしく帝王の文字が掲げられたユニフォームがグラウンドに散らばっていた。
 そこでたったひとりだけ、私の目を占める人がいた。茶髪のキャッチャーじゃない、大人しそうなピッチャーでもない、手拭いを巻いた人でも、背の高い金髪の人でもない。穏やかな銀色の髪をなびかせながら、対照的に強気な赤紫色の瞳を輝かせる人だ。金髪さんが呼ぶには、久遠くん、といったかな。
 高校からの帰り道、私はいつも彼を見ていた。マウンド上でバッターをくるくる翻弄してしまう姿は、私からしたら魔術師かなにかのようだった。だから、私の心まで奪ってしまうことに時間はかからない。あっという間に彼のファンの誕生だ。

 そんな彼と一度だけ話したことがある。私の通学路である帝王実業高校前にいた時、フェンスを挟んですぐ向こう側に白いボールが転がってきた。いつも彼が握っているものだ。私はぼんやりと眺めていた、何も考えなしで。
 何球も投げ込んで、すでに息をあげているはずの彼が駆け寄ってきたことに気付いたのは、私の目を縛って離さないボールに焼けた手が伸びた時だ。ようやく顔を上げたそこにはあの憧れの人、私が飛び退くように驚いたのは無理もないことだった。
 しかし、久遠くんは特に不審がる様子もなく、そっと黒い帽子に手をかけて頭の上へ浮かせた。その動作に驚いている場合じゃないぞと私も頭を下げる。耳に聞こえたのは異常なほどの心音、いつもの目に見える距離にいる時には無かったものなのに。高鳴って高鳴って、かつてないほどに身体が熱くなった。
 彼は挨拶を終えると、私に背を向ける。その後ろ姿が離れてしまう。せっかくこんなに近くにいるのに。芽生えた図々しい願いは、私に考える時間など与えてくれなかった。
「あ、あの!」
「……はい?」今度こそ訝しげられてしまう。
「えっと……」
 よくもまあいけしゃあしゃあと呼び止めたよね、顔も真っ赤だろうに。私は後悔した。けれど、今更引き下がることもできない。それなら、と何が飛び出すかを口にすべて委ねた。
「こ、甲子園、行ってください!」
 のが、なんとも阿呆で救いようのない選択だった。初対面のくせに何を言っているんだ、こんなことなら引き下がるべきだったと間抜けな口に批難が殺到する。
 けれど、それを取り払ってくれたのは目の前の微笑んだ彼だったの。
「……わかりました。甲子園、行きます」
「えっ」
「それじゃ」
 混乱した私と笑顔を残して、彼は去っていった。バカみたいなエールにもちゃんと応えてくれた、初めて笑ったところを見た。いろんな事実が入り混じっては揺すられる。私はそれをひとつひとつ拾う暇もなかったけれど、これだけはわかる。すべて、彼は優しい人だという道になっていること。
 頬に触れれば熱かった。ああ、もっと近づきたい。何を言うの、これ以上近づいたら発火してしまうぞ。目も耳も体も火照らせる眩しい後ろ姿を見て、私は彼に恋をした。

 ただ一度だけだった。それ以来、彼との関わりはない。私が帰り道に眺めるだけ、ただそれだけだ。
 この話は随分と前のもの。やがて、高校も大学も卒業して大人になって。もうそんな淡い記憶も片隅のものになっている。変哲もない片隅だったならよかった。困ったことに、それは未だ熱を持っているの。
 いつまでも綺麗な思い出の人に縋っているつもりもない。つもりもないのだけれど、彼は私の中で特別な存在のままだった。彼氏がいなかったわけじゃない。それでも私の心を華麗に攫っていったのは、紛れもなくあの日の銀色の彼なのだ。
 薄手のシャツから伸びている私の腕が夏夜の静けさを浴びる。今日は七月七日、世間では七夕と呼ばれる日だ。雲ひとつ見えない真っ暗な空にはひとつだけポッカリと浮き出たような満月が鮮やかに輝いている。
 母校や密かに青春を注いだ帝王実業高校の近くにある神社、時間も遅く人波がまばらになっているそこに私は足を踏み入れる。細身の枝がサンダルの下で折れた。
 帝王実業高校は、今でも変わらず強豪であった。最短の願掛けとしてここにはよくその生徒が訪れると聞くし、あの遠い想い人もいつの日か来たのかなと私の胸は少しだけ温かくなる。その温度の分だけ、彼は私の中にいるんだ。
 大きな笹、たくさんの祈りと共に掛けられた短冊を手に取る。まだ新しい紙を捲れば、奥からは少しだけ色の変わったものも出てきて。十人十色の願い、あまり人様の胸の内を覗き込むものじゃないなと手を離した時だった。
 不運なことに、強い風が吹いたの。私は大それながら幾千の願いを守ろうと急いで身構える。それでも、幸運に笹の頂上辺りからただひとつの古く汚れた短冊が降ってきたのみで。良かった、本当にこれだけの願いを守れるのは神様だけ。
 胸を撫で下ろして色の抜けかけた短冊を拾い上げた、が、私は見事にその時間を巻き戻した紙切れに釘付けとなった。そこには、私が高校三年生だった時の今日の日付と、繊細な字でこう綴られていたから。「あの子との約束通り、甲子園に行く」と。
 添えられた久遠ヒカルの文字が、私の脳裏に映像を流す。ガタイのいい人を相手に三振の山を築いていた久遠くん、手拭いの人と対決していた久遠くん、背が高い金髪の人を笑顔で見上げていた久遠くん、そして、私に笑いかけてくれた、約束してくれた久遠くん。
 あれほど小さな約束を覚えていてくれたのです。かっこよかった、優しかった、好きだった久遠くんが。胸が震えて脈打って、寒くもないのに身体がブルリと揺れる。
 彼が好き。けれど、この先に会うことは二度とない。もう遠く遠く、私なんかが背伸びをしたところで見えない彼は数年前のこの日、ここで私のことを思い浮かべてくれたとでもいうのでしょうか。
 目がジリジリと熱くなって、肺いっぱいに久遠くんへの想いが溢れてくる。会うことはないのに。遅すぎたのに。私の頬は一滴の涙で濡れた。それが引き金となるように、またひとつひとつと流れては、熱くなった心を冷まそうと落ちていった。嬉しい、嬉しいのに、悲しい。悲しいのに、嬉しい。秋の空のような乙女しい気持ちに、私は素直に、そして無理に笑顔を作った。
「ありがとう、久遠くん」
 胸の熱さはまだ冷めやらない。これがどんな感情だなんてわからない。でも、彼にそう伝えたい、それだけは頭の先から足の爪まで本当だった。そして、私は頭の中に残る銀色をそっとしまい込んだのだ。

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