短編

□ふたつの恋路は馬鹿みたく
1ページ/1ページ


 肩ほどまである髪を包み込んだ三角巾に汗が滲む。濡れてしまうのではないかと思うほどに。きっと、目の前の鍋から湧き上がる湯気のせい。私の視界に靄をかけながら勇ましく飛び出す熱さは、まるで誰かさんみたい。そんなことを考えて、手で払うこともせずにその湯けむりを受けていた。

「名前ちゃーん、ラーメンひとつ!」
「はーい、ただいま!」

 帝王実業高校の近くのラーメン屋さん、そこが私のバイト先。そして、その高校にあの人はいた。仕事中にも関わらず、私の頭をいとも簡単に占領してしまう人。馬鹿みたいに野球に真っ直ぐで、馬鹿みたいな人。仕事中なんだからと喝を入れたところで、手元の鼻をくすぐるラーメンを運ぶ頃には、また頭に帰ってきてしまった。
 でも、カウンター越しに見えた男の子に、私は彼を胸の引き出しにしまっておくことにした。こんなことができたのは、たぶん、その男の子が彼をよく知る人だから。

「小波くん、おまたせ」
「わ、名前ちゃん! 今日は働いてたんだね」
「うん、いつもありがとう!」
「ここのラーメン屋、美味いからなあ。毎日でも来ちゃうよ」

 いっぱいいっぱいだった頭で作ったラーメンを前に、割り箸をパチンと勢いよく鳴らす小波くん。私と同じく立ちのぼる熱さにやられた彼はトロトロに茹だった顔で「いただきまーす!」とラーメンを啜り始める。一度口に運ばれた手は止まることを知らずに動き続けるものだから、こちらの手は対をなすように止まってしまう。ただ、体を煮込んでいた熱さは胸の奥あたりに移動していたけれど。

「うん、最高! これがあるから明日も頑張れるよ」
「そう言ってもらえると作り甲斐があるってものだよ」
「はは、名前ちゃんらしいや」

 ズルズルと豪快な音をたてながらラーメンを噛み締める間、小波くんらしい言葉を受け取って、私は穏やかな仕事冥利をかみしめていた。歯ごたえはなくとも、柔らかい感触があるのは確か。
 ふと、その感覚に似た何かを抱いてしまう相手を思い出した。言わずもがな、あの人のこと。

「猛田も来ればよかったのになあ」

 そして、テレパシーでも使われたかのように心を透かされたのも、ふとした瞬間のことだった。まさか、顔に出ていたのかな。小波くんを観察してみれば、のん気にまたラーメンへとありついている。その様はとてもとても超能力者には見えないから、一抹の冷や汗は拭ってしまおうと彼に隠れて笑顔を作った。

「慶ちゃんは忙しかったんだあ」
「忙しいっていうかさあ……明日、友沢と猛田が一打席勝負することになってね。その練習だと思うよ」
「友沢くんと慶ちゃんが? なんでまた」
「それが、監督の意向なんだよなあ。なんでも友沢から打ち取られたら猛田、部活を辞めなきゃならないみたいでさ」

 しかし、適当に繕った言葉は押し潰されそうなほど巨大な上乗せつきで打ち返された。途端に私を襲うのは、頬杖をついた小波くんのため息とは比べものにならない衝撃。慶ちゃんはここに来るたび、毎度毎度飽きずに野球のことばかり話す生粋の野球バカ。そんなバカみたいな慶ちゃんがどうして。体すべての血が頭にのぼってやがて手に集まって、カウンターをそのまま握りこぶしで叩きつけてしまった。小波くんが口を進めようとした好物のことも気にかけずに。

「な、なんで!? 慶ちゃん、あんなに野球が好きなのに!」
「わあっ、お、落ち着いて名前ちゃん!」
「落ち着いてなんかいられないよ! 友沢くんからヒットが打てなきゃ、野球部を辞めちゃうんでしょう!?」

 アワアワと器を腕で囲い込む小波くんを気遣う余裕なんてない。だって、店に来たことはないけれど話くらいはよく耳にする。友沢くんが実力のある投手だってこと。そんな名ピッチャーに勝てなきゃ退部ですって? 崖に追い込むようなことをしてくる帝王実業高校野球部の監督に甚だ腹が立つ。顔も知らないし、どんな人かもわからないけど、ものすごく不快だ。不快極まりない。
 雛鳥を守る親鳥のような小波くんだけれど、それでもなお私の顔色を伺う。やはり小波くんらしい。今の私には焼け石に水だけれど。

「まあまあ、猛田はあまりプレッシャーも感じてなさそうだったし、きっと大丈夫だよ」
「だけど慶ちゃんは……!」
「アイツはやる時はやる男だって! 俺は信じてる!」

 私からの二次災害を危惧したのか、一気にスープごと大口に掻き込む。そんな彼を冷えかけの器に負けない流した細目で覗きながら、私は青筋も隠せずにいるのだ。小波くんだって、バカみたいなことを言い出す変な監督に一言いってやればいいのに! 私だったら監督にガツンと言ってやって、喧嘩もいいところ、慶ちゃんを守ってあげるのに! 私の体じゃ抑えきれない悔しさのあまり、カウンターから立ち上がった。

 ちぢれ麺を茹でながら腹の中で怒りをじっくり煮込み続けた私の機嫌、一度火をつけてしまえばなかなか冷めることもなく、目的の時間を迎えると同時に三角巾を放り投げた。同じ店の仲間へかける挨拶すら怒気混じりなのは、この際しかたないんだ。
 店を背にして駆け出すのも、しかたのないことだった。負ければ、慶ちゃんが野球を捨てる。この理不尽な戦いへの矛先は、今や私の足にしかないから。慶ちゃんは言ってた、部活の後は高校の校舎裏が俺の場所だって。あの野球バカのことだもん。絶対、そこにいる。そこでバットを振ってるに違いない。早く、早く慶ちゃんに会いたい。そんなバカバカしいこと、真に受けなくていいじゃないって、私だって何か言ってやるって、そう伝えたい。

 夜の校門をこっそりとすり抜けてようやく足が止まったのは、もちろん慶ちゃんの場所。そこには思った通り、バットを振っては戻しの繰り返しをする彼がいた。思い切り、足ではかき消せなかった熱をお腹にこめて名前を呼べば、すぐに気付いてくれる慶ちゃん。「名前さんじゃないッスか!」なんて、真っ白な歯を見せて無垢に笑う。大切な人の明るい顔に、足への疲れは飛んだものの、腹の虫は治まりそうになかった。
 ズカズカと彼へ駆け寄ると、慶ちゃんはまた素振りを始めた。けれど、私が慶ちゃんを見つけた時には八百七十八回目だったのに、私の登場で回数を忘れてしまったのか八百回に減ってしまって。猪突猛進に努力して、疑うことを知らない彼の姿に私はなぜか泣きたくなってしまった。

「慶ちゃん……小波くんから聞いたよ。明日、友沢くんと勝負しなきゃいけないんだってね」
「はいッス!」
「負けたら、野球部を辞めなきゃいけないんでしょう? ……そんな勝負、最初からやらなくていいよ」
「いーや、俺はやりますよ! こんなところで沈んでられねえ!」

 慶ちゃんは、私の願いなんて聞き入れてくれない。私は慶ちゃんのために言っているのに。声をいくら大きくしても、まるで聞こえないんじゃないかと思えた。それくらいに慶ちゃんは、バットしか、野球しか目に入っていないから。
 滲んだ悲しさは一瞬だけ。それより、慶ちゃんのことだ。そんな慶ちゃんが、野球を辞める理由なんてどこにあるの。野球とお別れしなきゃいけなくなったら、慶ちゃんはどうしたらいいの。なにがなんでも、こんなおかしな戦いは幕を上げる前に阻止しなくてはならない。

「慶ちゃんが野球を辞める理由なんてない! なんでそんな勝負を受けるの!?」
「あの友沢さんに挑めるチャンスなんッスよ! よっしゃあ! 燃えてきたー!」
「でも負けたら……ねえ、やめようよこんなこと! 私もその監督に話してみるから!」

 いよいよ我慢の限界にきた私は、いても立ってもいられずに手を伸ばした。標的は事の重大さも知らないで、ただただ燃え上がっているイノシシのような右腕。ガシリと慶ちゃんの半分もないだろう力いっぱいに掴めば、なんとか彼の直進的すぎる努力を止めることはできた。
 でも、私の手はその反動か、カタカタ揺れ始める。いいえ、この表現には語弊があった。その時に気づいてしまったの。慶ちゃんの腕が震えていることに。
 静かに慶ちゃんを見上げれば、腕だけじゃない。普段はニッカリ歯を見せる男らしい瞳まで、怯えきった子犬同然に震えていた。慶ちゃん、なんて口から滑り出た呟きは彼にどう映ったのか。慶ちゃんは、きまりが悪そうに私から目を逃した。

「……怖いんでしょう。そりゃあそうだよ、慶ちゃんは野球が大好きなんだもん!」
「名前さんには関係ないッスよ」

 冷たい声に、胸がドキリと凍る。しかし、今は爆発しそうな熱さの方が勝って。顔を合わせようとしない彼から冷やされた傷はすぐさま溶けてしまった。

「そんなことないよ!」
「アンタに、なにがわかるっていうんだ!」
「わかろうとしちゃいけないの!? しかたないじゃない! 慶ちゃんのことが好きなんだから!」

 そして、勢い任せの情熱は私の口を大いに暴れさせたの。しまった、わずかな間だけ唇を噛んで止めたけれど、もうどうしようもない。それはまるまると開かれた慶ちゃんの瞳が物語っている。ああ、どうしよう。言ってしまった! 元凶の怒りとやらは、こんな大切な時に限って見事に冷めてしまった。これでは、流れる冷や汗の跡を温めることもできないじゃないの。
 慶ちゃんはぽっかり口が閉じないまま、静かにバットの頭を地面に下ろした。まるで使い込まれた金属の棒が意思を持っているかのように、コテン、と。
 ああ、本当に、どうすればいいの。自分で蒔いた種どころか、水までやったくせによく言うものだ。でもどうすれば、どうすれば。進む道も退路もない崖っぷちに突っ立っている私。……とにかく! 気持ちだけは強く持たなくちゃ! 笑ったままの足にムチを撃って、慶ちゃんを睨むように見据えた。

「……名前さん」

 しかし、葛藤をひとつ繰り広げた後に見えた慶ちゃんの顔は、決意が固められたかのように頑固だった。そのくせ、らしくもない小さくて消えそうな呟きで囁かれたというのだ。初めて見る顔にハッとする。知らない慶ちゃんにドキリとする。

「好きなら……わかろうとしているなら、見ていてください」

 紛れもない、本当の猛田慶次を見た気がした。話し方を忘れた私の口は噤まれて、弱々しく、ゆっくりと頷くことしかできない。それは、不本意だった。だって、彼が野球を賭けた戦いを許してしまったから。こんなリスクがあるのに……あるのに、だ。ずるいんだ、慶ちゃん。どうして。
 
「どうして……そこまで、その勝負にこだわるの」
「……こだわってるわけじゃないッスよ」

 慶ちゃんは手を離した。支えを失ったバットは独特の音を鳴らしながら転がる。それに視線を奪われた私は下を向いてしまうけれど、慶ちゃんは上を見ていた。そして、彼はトレードマークの手ぬぐいを再び締め直して、どこか遠くを目に映した。

「名前さん。俺にはね、絶対に越えたい壁ってのがあるんス。その壁を越えるために……この学校に来たんですよ」
「越えたい壁……」
「はい。この勝負はきっと、その壁に挑む資格があるかどうかの試練なんス。こういうことは、望むところッスよ!」

 間見えた慶ちゃんは、さっきみたいな空元気じゃない。純粋な笑顔だった。薄暗い大きな空に、明日も見ていて下さいと祈るような。私が目の当たりにした彼の勇気、天の神様は見ていて下さったのかな。わからないけれど、私だけは見ていた。
 夢を語る男の子、おとぎ話に出てきそうな主人公と慶ちゃんは、シルエットすら重ならないけれど、今はそのヒロインでいられる気がする。慶ちゃんの決意を、願いを、星にかける。祈りを描いた私は、彼につくづく甘い。彼が野球を続けられますように。その本望はどこまでも真っ直ぐ伸びているものなのに、いつしか友沢くんと戦うことを折ろうとした戦意は喪失してしまったのだから。

「わかった」
「名前さん……」
「大好きだから……私、慶ちゃんのことを見ているよ」

 告げれば、彼は「あざッス!」と心弾み声弾みに笑顔を見せて、足元のバットを手に取った。私も当たり前のように数歩離れて、彼の隣を野球に譲る。きっと、この席は野球がすごくお似合いなんだ。でも、でもね、私はこんな慶ちゃんがきっと好きなの。びっしょりになったまま冷えている手ぬぐいを、ただただがむしゃらに熱くする慶ちゃんが。バットが風を真っ二つに裂いて、私の髪を揺らした。
 それに、彼は見ていてと言った。好きなら見ていてくれと。私にはお安い御用だ、見ていてやろうじゃないの。その壁とやらを越えるのを、ね。
 

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ