短編

□君がいなきゃ見えないこと
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 鬼のような監督が、鬼のような練習を課せる部活がない日のこと。俺は、普段タンスの奥底で眠っている私服を身に纏っていた。手に汗をジットリと握りながら。それには理由があって、隣に名字名前ちゃんがいるからだ。いいや、ただ汗を握っていたのは、さっきまでの話。今、手の中にあるものは冷や汗だ。
 名前ちゃんは、俺みたいな野球部の二軍が夢見るのもおこがましくなる、そんな女の子だった。明るく朗らかで、誰からも愛される性格の女の子だった。ボーイッシュながら愛嬌のある彼女に告白したのは、つい何日か前のことだ。名前ちゃんが「ふふ、いいよ!」とあの笑顔で答えてくれた時には、正直死んでもいいと思えた。それくらいに俺は、名前ちゃんと付き合えている現実をまだ受け入れ切れない。
 そんなフワフワ浮かんだ気持ちのまま迎えた、初めてのデートってやつは踏んだり蹴ったりで。名前ちゃんにいいところを見せようとして空回り、もう心は痣だらけだ。ああ、名前ちゃんに愛想を尽かされてしまったかもしれない。かっこ悪かったもんなあ、俺。これがもし、あの虹谷とかなら上手いこと口を回せるのに。もう夕方どき、隣を歩く彼女は少し赤く染まっていて、どこか寂しさが俺を包んだ。名前ちゃんの家に着いたら、もう今日の彼女との時間は終わりだ。

「ねえ」

 どうしようだとか、名前ちゃんが可愛いだなんて、邪なことを考えていた俺に彼女が突然顔を見せる。その顔はバッチリ俺と合ってしまうわけで。真ん丸で、色の澄んだ瞳に俺が映っていて、真剣な表情に胸が高鳴りつつも何を言われるのかと恐れもした。

「な、なにかな」
「今日のデート、これだけなの?」
「これだけ……」

 真っ直ぐに俺を見つめる名前ちゃん。彼女の目が俺を責めている気がして、言葉がつまり出てこない。そのくせ、汗だけは一丁前に手を濡らすものだからもう収まりきらないんじゃあないかと思う。
 彼女が言っているのは、きっと今日の俺の情けない姿のことだろう。調べていたランチの店は俺の甘さが生んだ予約制だったり、ショッピングに行けば名前ちゃんが見ているものを買おうとして、彼女の視線の先を間違えたり。……初めての彼女に動揺しているのは確かだけれど、もうちょっと上手くやれるんじゃないか? 彼女の目でますます俺を刺す槍が増えて、あそこでああすればと三振を食らったあとのような気分だ。

「あの……」

 しかし、彼女はため息をつくことも、平手打ちを繰り出すこともない。さっき言ったけれど、綺麗な彼女の目はそれだけで俺の鼓動を鳴らすんだ。名前ちゃんは、赤い顔のまま俺を見て、逸らし、見ては、逸らすの繰り返し。口も開閉を右往左往していて。なにか言いたいことがあるのは、俺でもわかった。
 彼女に胸を鳴らしているだけじゃあダメだ。俺は自分の手を服へと乱暴に擦り合わせる。それだけで、嫌な手の平が解放されたみたいだ。

「名前ちゃん、なんでも言ってよ。俺は君の彼氏なんだから」

 これ以上、名前ちゃんに嫌な思いはしてほしくない。自分がさせているのに、それをすべて投げやって彼女を見つめる。ドキドキする、なんて言ってられるか。かわいいのは確かだし、こんな女の子が俺の彼女だなんて実感も何もないけれど、だ。それに、ここまでかっこ悪いところを見せてきたんだ。失うものなんてなにもないぞ。もう俺はどこぞのキザ野郎になったつもり、半分ヤケになって思いの丈を伝えてみる。不思議と、恥ずかしさはあまりなかった。

「……じゃあ、お願いがあるんだけど」
「うん、なに?」
「えっと、その、だ……」
「……だ?」

 名前ちゃんが立ち止まった。それに合わせて、俺も足を止める。よくよく見れば、彼女は夕日に照らされていない箇所も赤く染まっている。途端に、彼女は心が平常でないことを知り、彼氏としては助けなきゃ、と思った。そのはずだが、なぜか俺の口もなにも動かない。ただ、名前ちゃんが意を決した顔で口を開くのを、縛りつけられたように眺めていた。

「だ、抱きしめて……ほしいの」

 そして雀の涙にかき消されそうなほど小さく呟かれた彼女の声は、はっきりと俺の耳に届く。抱きしめて、ほしい? 抱きしめるって、女の子を腕で包んであげる、あのこと? さっきまで彼氏面していた俺は、一瞬で落ち着きが吹き飛んでしまった。だ、だって、名前ちゃんを抱きしめるなんて、その、そんな……! そんなことをしてもいいのかと手が震え始めるんだ。

「え、名前ちゃん!?」
「だめ、かな」
「い、いや……! そういうわけじゃ……」
「じゃあ、抱きしめて」

 しまいには、両腕を伸ばしてくる名前ちゃん。彼女を抱きしめるなんて、俺の頭の中の名前ちゃんとは何度したかわからないけれど、今ここにいる彼女は現実の名前ちゃん。バクンバクンと壊れそうなほど心臓が鳴っていて、ああ、これは夢じゃないんだと思った。息を呑みこむ。情けなく震え混じりの手を握りしめてかき消すと、本物の名前ちゃんに手を伸ばした。
 彼女との距離が徐々になくなっていき、俺の手が女の子らしい背中に触れる。同じ人間なのかと思うほど華奢で、女の子という生き物に初めて出会ったような気さえした。彼女との距離を縮めれば縮めるほど、身体が焼かれていく心地がする。トレーニングでの何分の一もない力で彼女を引き寄せれば、スッポリと彼女が俺の腕の中に収まる。ここから見える短い髪のつむじに、ああ、かわいいなと俗的な感想しか湧いてこない。その他といえば、俺とは違う柔らかな香りが鼻を通るだとか、そんな変態くさいものだ。……しかたがない、素直な気持ちなのだから。それほどに俺は、名前ちゃんが好きなんだ。
 ふと、彼女の腕が俺の背に回されていることに気がついた。両手はおずおずと遠慮がちで繋がれていない。そんないつもは朗らかな名前ちゃんの慎ましい一面に、なんだか俺自身が癒やされてしまって。胸に寄せられた頭の上に手を乗せるくらいはしてもいいだろう、だって彼氏なんだから。なんて開き直っちゃうんだ。

「……大好き」
「うん、俺も」

 もう、俺の中に今日のデートの失敗なんて影も形もなかった。ただ、名前ちゃんの俺しか知らない愛らしさを噛みしめるだけだった。俺の返事をこんなに嬉しそうに笑って受け取る女の子は他にはいるだろうか。この手で与えられるだけ彼女の笑顔を作ってあげたいし、俺も彼女の隣で笑っていたい。そう切に願うしかないんだ。もうすぐ濃紺に変わる赤い空の下で、俺は名前ちゃんへの愛を知ったんだ。 

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