短編

□あなたも、これから
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 真っ暗な世界を、たったひとつしかない街灯が照らしています。お世辞にも明るいとは言いがたいそれは、あまり役に立っていないようだけれど、まあ、無いよりはましです。私は、昏々と降ってくる小さな灯火を背負い、重い身体を引きずり歩いています。よそ行きの黒い正装に着られた、生気の感じられない身体が動いているのなんて、傍から見れば気味の悪いものでしょう。ですが、足元からどこまでも広がる雪たちのように、今は私も真っ白になれる時間なのです。ほら、サクサクと柔らかな白い粉を踏みしめていると、今日もお疲れ様だなんて囁かれているような気になるじゃありませんか。
 辺りには、ひとりたりとも見当たりません。それでも、この時間がとても好きなのです。いいえ、この時間だけが、とても好きなのです。だって、ようやく社会から自然に帰ってきたような心地を感じられるから。私は、こうして両極端を行き来する砂時計を毎日飽きもせずにひっくり返しているのです。今日も家に帰ったなら、また明日、ここに来るのを布団の中で待つだけ、砂時計をまたひっくり返すだけ。無意識に漏れた白い息は、晴れ模様とは言い難い胸に重なります。
 ふと、強い風が吹きました。私の周りで眠っていた雪たちが一斉に目を覚まして、空へ飛び上がっていきます。その光景は、まるで雪が降る景色を逆さまから見ているようで、私はしばらく魂の抜け殻らしく突っ立ってその様を眺めていました。しかし、これならどうだと言わんばかりに、風が手を取り合って、私の髪を元気よくなびかせます。あわてて手で大人しくするよう叱りつけた時、私の目は、これまで気に留めたことすらなかった方角を映しました。
 なんでしょうか。古びたトンネルとでもいうのかしら。ずうっと投げ出されて、人の手が伺えないそこは、私が気づいたことに嬉々としてそびえていました。そう思ってしまうほどに、私みたいな、なんの良さも見えないその場所に、魅力を感じたのです。こんなところがあったでしょうか。疑問が湧き出てこなかったわけではありません。でも、それ以上に行ってみたい、行かなきゃと思いました。足元の白い雪が小刻みに声を上げるから、ようやく、自分が前のめりになるほど足を回していたことに気づけました。ちらつく街灯は、ここまで明かりを照らしてはくれません。
 私の手がトンネルに触れて、わあ、冷たい。ずいぶんと長いこと、ここにいるみたいですね。近くで見ると、ますます特徴も性格もなさそうなそのトンネル。今まで、ここの近くに勤めていながらも気づかずにいて当たり前だと思う反面、どうして知らなかったのかと自分を責めてしまいたくなるほどの魅力が、やはりありました。だから、そこに吸い込まれるように足を進めていったことは、特筆することでもありませんね。
 その建物は、まるでこの雪夜にもう一色の影を塗り込んだような暗さで私を包み込みました。母親に抱かれるような温かさなんて、もちろんありません。愛情もなにもない、無機質な抱擁を感じながら、銀世界から隔離されたコンクリートの上を歩きます。カツンカツンと私の靴がここぞとばかりに騒いでいます。その音を聞きながらゆっくりと、ゆっくりと、私は知らないはずのそこへ足を運ぶのです。
 しかし、そこは想像を遥かに超える長い長いトンネルでした。ここに入る前までは足元を邪魔していた雪たちも今や恋しくなるほどに、コンクリートが目に焼きついています。しかし、途方のなさにため息を漏らしたことを神様かどなたかが見ていたのでしょうか。遠くの方に小さな灯りがありました。出口だ、そう思うのと同時に単純なもので、足が幾分か軽くなった私は踵が上がったまま年甲斐もなく駆けていきました。

 やっと日の目を見た私は、会社を出る時と同じく殻を破って大きな伸びをします。うん、こうすると気持ちがいい。しかし、そこで私は自分の置かれた場所に気づくのです。私は、日の目を見ています。今、見ているのです。トンネルをくぐる前は、仕事が終わって時刻は夜。たったこれだけで就寝中の太陽を起こしてしまうなどありえないこと。矛盾した空を見上げ、息を呑む。たったこれだけの動作に、私の鼓動は全力で野球でもやったかと聞きたくなるほどに鳴っています。これは、どういうことでしょう。混乱してろくに働いてくれない頭を悩ませていると、私の目は小さなグラウンドを見つけました。頭よりも目の方が優秀なようです。立ち止まって使い物にならない脳みそに頼るより、優秀なふたつの瞳に頼りましょう。考えることもほどほどに、そのグラウンドへと近付いていきました。しかし、その中の光景で、私の足は不審げに止まることになります。
 男の子がいました、二人の。二人は黒い野球帽と同じ黒を基調としたユニフォームを身につけており、胸元には瞬鋭と書かれていました。それだけならいいのです。私の足も突然止まることはなかったでしょう。頭を下げているのです。男の子が、相手の子に。もしかして、これがいじめというやつでしょうか。静かながら憤慨を感じ、さらに助長する陰湿さを目の前の金網が醸し出しているものですから、ガシャンと不穏な音で手をかけてしまいました。
 そこで私は、自分がいかにグラウンド内に気を取られていたかということを知らされました。隣に男の子がいたのです。中の彼らと同じ格好をした男の子が。クセのある髪を空に見せている彼は、不穏な空気を黙認しているのでしょうか。彼にもどこか怒りを覚えます。人としてどうかと思いますよ、と。
 しかし、目があった顔立ちはとてもとても人を痛めつけることを好みそうには見えず、人知れず拍子を抜かしてしまいます。中性的な瞳、彼は本当に彼なのでしょうか。そんなほとほと失礼なことすら浮き上がっては、いけないと掻き消しました。
「あの……先輩のお知り合いでしょうか」
 そのうえ、柔らかな声。彼が彼であることは間違っていないようですが、人を痛めつけるご趣味があるとは到底思えません。この憤りは身勝手なものだと投げ捨て、彼に微笑みかけました。
「ごめんなさい、ちょっと立ち寄っただけなので」
「ああ、そうだったんですね」
「先輩さん、なのですか? あの方」
 それでも、私の口は好奇心旺盛な様子で。言葉にせずともわかることをいやに婉曲的に指差してしまうのです。彼が先輩であるならば、なぜ頭を下げている場面を後輩のあなたが眺めているの。汚いものを綺麗だと皮肉めいて言う大人社会で培われた口に、少年はああ、と後ろめたそうに私から目を逸らしました。ここが大人の困ったところですね、直接的なダメージを受けない私の胸は傷ひとつありません。
「えっと……僕たち、見ての通り野球部なんですけど、今その部が大変で」
「大変?」
「はい、二つに分裂しているんです」
 しかし、眉を下げた彼から出てきた言葉は謝罪などではなく、私にとっては不可解なことでした。話の上下が読めない私は、自然とその意を顔で表現してしまったのでしょう。彼はもう一度口を開いてくれました。
「先輩はそれを直そうとしてくれていて、ひとりひとりに声をかけているんです。部に戻ってきてくれって」
「そんなことが……」
 放り投げた憤りはすでに遥か遠く、私から見えないところまで消えていきました。まさか、そんなことが起きていたとは。浅はかな切り取りをしてしまった自分に、恥ずかしいやら何やらで目も当てられません。そんなむず痒い気持ちは、どう対処すればいいのでしょうか。かけられた両手に金網がくい込んで、ほんの少しだけ痛くなりました。
 いたたまれず頭を下げ続ける彼を強引に視界へ押し込みます。野球帽が落ちてしまうのではないかと思うほど、彼は深く深く切実でした。会社でもここまで下げることのない空っぽな頭に、彼の真摯な姿はこれまたいたたまれなさを再燃させてくるのですから、彼を目に映したことを後悔しそうになります。
 しかし、彼は私を掴んで離しませんでした。会話のすべてが聞こえてくるわけではありません。しかし、頼む! と他の言葉より圧倒的な強調を彼からいただいた声が聞こえてきて。言うまでもありません。相手の彼を部に引き戻そうと必死なのでしょう。
 私は、彼のようになりふり構わず走れているのでしょうか。ふと、感化された頭で考えてしまいました。答えはもちろん、尋ねたことと真反対です。なあに言ってるの、とこれまで積み上げてきた私に笑われるほどに。そう思うと、途端に彼が崇高な人に見えて仕方なくなります。私の瞳にいる彼が歳下らしかぬ輝きを放ち始めるのも、仕方のないことですよね。
「先輩さん、頑張っているのね」
 誰に言うでもなく彼を見つめながら呟いた私に、隣の後輩さんが頷きます。
「僕もそう思います。先輩は、人を自ら動かす力がありますから、ですかね」
「……ええ、そうかもしれませんね」
 人を自ら動かす力、この後輩さんは上手なことを言うもの。不思議な力を持つ男の子は、見ていると憧れを抱き始めます。
「何かに全力で、か」
 私には、そう呼べるものはあるのでしょうか。いつしか緩くなった手を金網から離して考えに耽りますが、これといったものは見つかりません。私は家と仕事の往復、条件が悪いこと極まりないですね。
 後輩さんはどうなのでしょう。盗み見れば、彼はまだ先輩さんに釘付けで、私の視線に気付きません。それをいいことに観察するようにジックリと眺めました。黄土色の瞳に映る彼を、どんな気持ちで見ているのでしょう。彼の年齢を経験したはずの私でも、野球部などと縁もゆかりもないからか想像もつきません。
「あの」
「はい」
「あなたにとって、先輩さんはどんな方ですか?」
 今日の私の口はやはり好奇心旺盛なようで、頭より先の行動に私が驚いてしまいます。しかし、彼は訝しげな仕草も見せず、そうですね、と微笑んだ。
「憧れ、です」
 先輩みたいに、何かに向かってウソをつかずに歩いていきたいんですよ、僕は。先輩はやり直す勇気をくれる人なんです。そう言った彼の顔は先輩さんに負けじと輝いていた。やり直す、か。それが可能なら、やり始めることも可能でしょうか。今から、あなたのようにすべてを始めることもできるでしょうか。
 二人並んで、同じ人を見ます。私は私の問いかけを、きっと彼も彼なりの何かを彼に尋ねているのかもしれません。知らない人に何かを尋ねるなんて、おかしな話かもしれません。けれど、私は彼ならどんなことでも聞いてくれると思いました。知らない人にそんなことを思うなんて、おかしな話かもしれません。けれど、私は彼なら大丈夫だと言うことを確信しました。
 ほら、それは彼の笑顔を見てください。頭を下げていた相手の手をとって、明るくて前向きで、どんなものも照らしていける笑顔を。それに照らされたのは、きっと私だけではありません。

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