短編

□ただひとつしかなかった
1ページ/1ページ

 高校球児のたった三年という短命な人生において、必要なものを知っているだろうか。技術、チームワーク、優れた監督。どれもありきたりで、どれも違う。僕らは気づいてしまったのさ。このただただ真っ直ぐ突き進むだけの時間に、最高のスパイスを与えてくれる存在を。その様はまさに天使、そう、エンジェルだ。高校野球にさらなる熱を撒いてくれるのは、女性という天使たちなのだよ。いち早く彼女たちの秘めたパワーに気づいた僕らは、さっそくエンジェルを集め、彼女たちにその魅力を惜しげなく振りかけてもらおうと思ったのだ。それがエンジェルナイン、僕たちの高校にいる彼女たちの総称。
 そんなエンジェルナインに、またひとり女の子が加入してきた。これまでの彼女たちとは違い、また随分と背の低い子だ。元気に血色染まる頬とまん丸の瞳は、彼女が明るく溌剌な女の子であることを口ほどに示している。僕の姉とは似ても似つかない子供同然の姿に、彼女は本当に高校生なのだろうかと思ってしまったものだ。姉さんの隣に立っていた女の子は、僕たちをひと通り見渡した後、小さな口を瞳同様まん丸にして開いた。そうして、元気一番という言葉が似合う彼女の自己紹介は、名前のみの至って簡単なものだった。名字名前さんというらしい。極めて、素朴な出会い方であった。そのはずであった。

「き、キミ! なんということを……!」
 僕は今、目の前の光景を現実のものだと鵜呑みにすることができない。今は彼女の小さな手には余るハサミが握られていて、その正体である彼女がなんの混じりけもない純真な瞳でこちらを見ているのだ。そして、彼女の足元にはもともと長くもない髪が散らばっていた。先ほど、僕の目の前を上から通っていった綺麗な線だ。それらは互いにちらりゆらりと僕を翻弄したから、僕は狼狽する他ない。なぜ、なぜ彼女が自身の髪を切ったのか。
 震える手で肩を掴めば、彼女は今しがたようやく驚いてみせたのだ。僕といえば、彼女のその動作に同様の激震を覚えた。ピッチャー強襲の方がまだマシだと思える当たりで、僕を飲み込んだのは彼女の何十倍もある喫驚仰天だ。天地すらひっくり返るほどの衝撃であった。
「な、なんですか……?」
「どうして髪を切ったんだ! 髪は女性の命じゃないか!」
「女性の、いのち……?」
 目をぱちくりさせる彼女では相手になりそうもない。彼女は僕の感嘆を単なる質問として捉えたらしく、ああ、なんてのんきに微笑んだ。なぜだ、どうしてだとそれ以外の言葉が出てこない僕がしているのは、単純に問うてるわけではない。それを知ってか知らずか、いいや、知るはずもなくニッパリとあの溌剌とした顔で答えるのだ。
「えへへ、髪にゴミがついちゃって」
「取ればいいじゃないか! なぜ! 君は女の子だろう!」
「私、女の子……ですか?」
「な、何を言う!? 当たり前じゃないか!」
 彼女は不思議な、そして不可解な少女であった。明らかに無為自然を無視した髪は、彼女の三百六十度どこから見たとしても女の子だと言わせられる彼女自身と全く相性が悪い。並べてはいけないものだとすら思える。
 しかし、だ。僕の斜行のある眉はさらに勢いづいているのにも関わらず、彼女は僕と対角線それ以上にある表情を作る。頬は染まり、瞳は潤み、唇は震えまじりに弧を描く。喜怒哀楽で言えば言うまでもなく最前列にいる感情を表す顔こそまさに髪とのコントラストもいいところで、僕は何を見ているのだと自分を訝った。名字さんはそのほくほく顔で、隠しきれない赤らみと共に小さな口を開く。
「えへへ……女の子扱いなんてされたのは始めてです」
 左右非対称の髪が揺れて、彼女の笑顔がさらに色づいて。それはさながら麗らかながら未熟の酸味を含む少女の顔である。だが、僕はそんなものいらないとばかりに顔を歪めた。違うパズルピースを強引に押し込んだ噛み合いの悪さに寒気すらした。それほどまでに、彼女は清澄な微笑みなのだ。言葉以上の行間などあるのなら教えて欲しい。少なくとも僕には彼女の行いも意図も、これっぽっちも見えやしないのだ。

 名字さんはその日を境に変化した。単純に言うものなら、彼女は僕に擦り寄るようになったのだ。しかし、小動物を連想させる彼女は僕以外には懐かず、僕にだけ尻尾を振り始めた。
 そしてもう一つ、変わったことがある。それは名字さんへの周りの態度だ。僕がこれほどない衝撃を受けたあの日のまま、彼女は何事もなかったような顔をして過ごしている。彼女には、あの出来事は本当に何事でもないのかもしれない。つまるところ、彼女の髪は今も時間が止まったままなのだ。不自然に一箇所だけ短くなった髪が嫌でもコロコロと笑う少女に陰を落としてしまうから、人は彼女専用の作り笑いを用意し、徐々に彼女の同心円状から消えていった。それでも彼女は笑っていた。特に、僕に対しては白い歯を出し惜しみせず見せてだ。僕は、そんな彼女がやはり不思議であり、不可解だった。
 僕が練習している時、練習している場所へ忠犬のように足を運ぶ彼女は、選択授業でも然りであった。僕に一番よく似合っているであろう美術を選択すると、躊躇いもなにもなく彼女も同じものを選んだ。「虹谷くんと一緒ですよ!」と屈託のない微笑みで言われたものだが、彼女はそこで恐ろしい才能を見せたのだ。
 美術の時間、彼女は僕を、僕は彼女を絵に描いた。互いというモデルを見る際、何度か交わる視線の度に名字さんの顔が綻ぶ。それを見る度、どうも女性の愛らしさに手を緩めそうになるのかと思いきや、彼女の場合はそんなことはなかった。名字さんの手が動くのをなんてことはない僕が見ていて、ただそれだけのこと。そしていつしか僕も面前のキャンバスの相手に戻る、その繰り返しだ。
 やがて「できました!」という高い声が僕の耳に届いて、なんだ、もう完成したのかと筆を置く。一方の僕は美というものの専門であるせいか、こうした活動には時間をかけて妥協を許さないきらいがある。まあ、僕自身は美に限定されずとも妥協を捨て一心一心で物事を進めていくタイプの人間だ。彼女の半分も記されていないキャンバスから手を離すと、意気揚々と描いたものを見せつける彼女に視線をくれてやった。
「どうですか? 虹谷くんにそっくりでしょう!」
 しかし、これはどういうことか。彼女の手に握られた男は洗練され美しかった。美しいという言葉が差し出がましく思えるほどに、たった一枚であることが嘆かわしくなるほどに、その絵に秘められた秀麗の脅威といったらないんだ。これが、僕なのだろうか。アフロディーテやらヴィーナスやらの奴隷へと腰を落としそうになる僕は、驚きの中に辛うじて残っていた甘露を盾に踏みとどまる。彼女にとって、僕はこんなにも美しい存在なのだろうか。これはもはや、神と呼べる領域ではないだろうか。与えられた自尊は僕を温かく優しく満たしていき、彼女の絵をより清新とさせた。
「へえ、君は意外と絵が上手なんだね」
「虹谷くんに褒められるなんて嬉しいです! もっともっと描きましょうか?」
「いいや、それは大丈夫さ。それよりあまり動かないでくれよ」
「はーい!」
 彼女の中で僕という存在がかなり上位を占めていることは間違いない。こちらが申し訳なくなるくらいに従順で、ものわかりのいい子だからだ。僕が彼女を評価すれば彼女は遠慮なく大喜びをするし、ものごとを覚えたての子馬のように彼女の中でその対象が僕にとって良いものだと価値づけられる。そんな姿にどこか不徳を感じつつも、まあ悪い気はしないと見てみぬ振りをしていた。
 むしろ、見てみぬ振りをしていられないのは相も変わらない髪型だ。彼女は美的センスに恵まれているのは一目瞭然だが、外見の美には無頓着のようだ。もともと可愛らしい顔をしている分、そのちぐはぐな具合はどうにかして欲しいものだという僕の願いなのだ。
 キャンバスに向き直りながらも、彼女から、正確には彼女の髪から視線を離さない僕。それを疑問に思ったのか彼女が首を傾げると、切り取られた断片の髪も一緒に傾げられる。やはりいい思いはしない。
「名字さん」
「はい?」
「君、髪を切ったらどうだい」
「……髪ですか?」
「そうさ。切ってしまったものは仕方ない、その髪に合わせて、他の髪も切った方がいいよ」
「虹谷くんがそう言うなら切ります!」
 恐ろしい決断のよさだ。僕はどうも僕が仕向けている気がして彼女への罪悪感がまた芽生え始める。しかし、心の裏表というのやらなんとやら、彼女が僕の言葉ひとつひとつに気持ちよく首を縦に振ることへ、反面は優越感を散らしている。どちらかといえば、この人徳から背いた方が裏だと信じたい。美しくはない自身の脳裏は、この裏のない少女がいることで満たされているのではないかとまで考えてしまう。ほとほと、恐ろしいのはどちらだろう。

 彼女は髪を切った。肩より上に切り揃えられた活発な短髪が今までよりも格段に彼女の魅力を引き出していて、瞬く間に注目の的となった。彼女の同心円状には人影が寄りつくようになったのだ。
 さらに追い風が吹き、彼女の魅力はより広く浸透することになる。彼女は頭の回転が驚くほど早く、野球部のエンジェルナインというただそこにいるだけの存在ではなく、マネージャーとして縁の下で力強く支えてくれた。ある時は他校のデータ収集に大きく貢献し、またある時は効率のいい練習を考えついたり。その上彼女は定期試験があろうものなら、張り出された紙の一番上にいつも君臨している。
 いわゆる天才肌の名字さんはそれを鼻にかけたりはしなかった。そんな彼女の愛らしさに張り詰めた氷河が溶け、今では肩までの髪と元気笑顔を武器に人を集めている。僕と仲のいいチームメイトたちもそのひとりだ。
「名前、その髪なかなか似合うじゃねえか!」
「ええ、前よりもいいと思いますよ」
「切った方がいいって、虹谷くんが言ってくれたんです!」
神成と東雲は、ここ最近名字さんになにかと声をかけるようになった。その理由は言うまでもない、彼女が髪を切って内側に燻っていた可愛らしさを強調するようになったから。だが、僕はそれを遠くから見つつ思う。ふたりは、彼女の内側に燻っていたものなんて知っていたのだろうか、と。外側に表出して初めて知ったのではないか、と。
 神成が名字さんの頭を撫で、彼女は微笑む。僕はそれがひどく滑稽に見えた。上面しか見えていない神成と東雲が、名字さんの髪は生半可な理由で短くなったわけではないこと、それを知らずして似合っているだの可愛らしいだのを囁く、それは吹けば飛ぶほどの軽口だ。僕は無性に腹がたった。名字さんはもっと深みのある女性だ。口説き方も淡白でまるでなっていない。いいや、むしろそんな万人にかけるような言葉では表現できないんだ、彼女は。もっともっと深淵に誰にも見せていないパンドラの箱が眠っているんだ。
 僕は何をイライラしているのだ。落ち着かない頭もなにもかも今は鬱陶しく、そうだ、彼女たちがいるじゃないかとエンジェルナインのもとへ向かう。まさに楽園と化しているベンチには、僕の姉さんを筆頭に数多くのマネージャーがいて、その姿だけで僕の絡まった心は解きほぐされていった。
「誠」
「なんだい姉さん」
「どうしたの? 浮かない顔をしているわよ」
 はずであった。実際は、そんなこともないらしい。姉さんが僕の顔を覗き込み、穏やかな目が珍しく真剣な色に光っている。僕は心底驚いた、大切な姉さんにエンジェルたち、それさえいれば何万馬力にでもなれると思っていたから。僕を覗き込む姉さんの目には、確かに不機嫌そうな僕が映っている。これでは姉さんが心配するのも無理はない。一体、僕はどうしてしまったんだ。なおも胸に残るのは神成と東雲、そして名字さんだ。
「……何か悩んでいるのね。話してごらん」
「姉さん……」
「ふふ、大丈夫よ。みんなには内緒にしておくから」
 僕の姉さんは僕のことをよくわかっている。ね、と優しく微笑む姿はまさしく天使のように思えた。しかし、僕の心はやはり天使でもどうにもできないほど靄がかっているらしい。
「僕、どうにかしてしまったのかもしれない」
「どうにか?」
「あれを見ていると、なんだか腹が立つんだ」
 名字さんたちがいる方を指差すと、姉さんは首を傾げる。どういうこと、と言っているのを汲み取ることは弟の僕からしたら朝御飯前で、僕の中に渦巻く毒素を吐き出すように姉さんの懐に甘えることを決めた。
 僕は、名字さんの髪のことを知っている。彼女が様々な才能に恵まれていることを知っている。彼女は僕に言ったんだ、女の子扱いをされたのは初めてだって。いつも元気な顔をしていて、純粋な目をしていて、僕が喜ぶと彼女も喜ぶんだ。けれど、名字さんは不思議な人なんだ、不可解な人なんだ。まだまだ彼女には誰にも見せていない姿があるはずなんだ。見たこともないけれど、はっきりわかる。それほどに名字さんは薄っぺらい人ではないんだ。だから、神成や東雲が彼女を口説くのが見ていられないんだ。そんな軽いものを叩いちゃいけない、そんな女性じゃないんだ、名字さんは。僕の方が名字さんのことをわかっているんだ、僕の方が、名字さんと一緒にいたのだから。
 ここまで無我夢中に縋って、僕は止まった。だって、これではまるで。
「誠」
 姉さんがいつもの、穏やかな笑顔で微笑む。僕は姉さんの弟だからわかる、姉さんの嬉しそうな表情で、ああ、これはつまり。
「素直になって、ね」

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ