短編

□さようならはまだ遠い
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 ことの発端は、さぞかしどうでもいいことだった、もう覚えてないほど。お兄ちゃんの部屋が汚いってことだったっけ。それとも、私のペンを勝手に使ったことだったっけ。とにもかくにも、虫の息ほどの火種が別の話題に引火し続けた結果なのだと思う。青筋立てて怒鳴りつけるお兄ちゃんと同じ血が流れる私は、負けじとあれやこれや、今は関係のない地雷を投げつけ続けた。知る限りのこと、手当り次第に。それは、お兄ちゃんにも言えることなんだけどね。
 私はお兄ちゃんよりひと回り歳下で、まだまだ子供。そんな私は図々しいながら、お兄ちゃんよりひとつ歳上の塔哉さんを慕っていた。優しくて、面倒見のいい塔哉さんは小さいころから私のこともよく気にかけてくれて。こんなお兄ちゃんがいたらいいのにと幼心で思ったものだった。中学生になった今だって、塔哉さん一筋でクラスの男の子なんて目に入らない。
 末広がりに収まりのきかなくなった喧嘩は、お兄ちゃんにその気持ちを攻撃せよと命じたの。塔哉さんはこんな女に振り向いてくれるはずがないと。お兄ちゃんが勢いにすべて委ねて言ったことはわかっている。野球でもなんにでも熱い人だから、ついついスイッチが入ってしまうことも。
 でも、悔しかった。二宮瑞穂の妹として、お兄ちゃんと似たところがあるのは本当のこと。お兄ちゃんはそれをよしとする性別だけれど、私はそんなことはない。何年か前までは気にも留めなかった性差をまざまざと見せつけられて、私はガラにもなく泣きたくなった。噛みつき癖のある動物のような私は、いつしかテレビで女優さんを見れば憂いを覚え、可愛らしい女の子を見かければ羨望を抱くようになったんだ。
 お兄ちゃんにありったけの暴言を吐き捨てて、逃げるように家を飛び出したものの、行く宛もなくて足が止まる。しかし、もうかなり小さくなった家を振り返って首を振った。今更、戻るなんてことはできない。お兄ちゃんが悪いんだから、お兄ちゃんが謝るまで家には帰らない。帰るもんか。まだ薄い胸のすぐ下にある、ヒビのはいった気持ちを握りしめる。やっぱり壊れそうになっていて、私はまた目に霞みがかってしまう。
「名前ちゃん?」
 その時、私を呼ぶ穏やかな声がした。何度も聞いているそれは耳を風が通ったと錯覚させる柔かさを帯びていて、顔がそこへ向けられるのは私にとってしかたのないことだった。もちろん、私を見るのは大好きでしかたがない人、塔哉さん。ユニフォームではなく、私服に身を包んだ彼は私を見ると目を見開いて駆け寄ってきた。
「どうしたんだ、泣いているじゃないか」
「……お兄ちゃんと喧嘩した、だけ」
 塔哉さんの登場で、都合良く流れてきた涙を手で払う。普通の女の子がやれば涙は女のなんとやらだけれど、小さいころから私を知っている塔哉さんに見られるのは、屈辱以外の何者でもない。
 もっと、女の子になれたなら。短くてくせっ毛だらけ赤髪が、さらさらの綺麗な色だったなら。何度そう思ったかはわからない。すべて、すべては塔哉さんがいたから。高校生になった塔哉さんが中学生になった私のお兄ちゃんじゃなくなったから。
「はは、また瑞穂と喧嘩したのか」
「お兄ちゃんが悪いんだもん」
「今日はなにがきっかけなんだい」
「……忘れた」
「じゃあ仲直り、しに行こうか」
 私の頭に手を乗せて微笑む塔哉さんはやっぱり、私のお兄ちゃんは卒業してしまった。小さい頃はこうされるのが好きだったのに、今じゃもうひとつ、苦しいなんて反対の気持ちまで顔を出す。ちぐはぐで、悲しくなるの。
「塔哉さん」
「なにかな」
「……ごめんね」
「どうしたんだ、名前ちゃんらしくないなあ。こんなこと、もう慣れてるよ」
「そっ、か」
 そのくせ、私は妹を卒業させてもらえない。温かい手は今も私を知らず知らずのうちに熱くするのに、気付いてもらえないんだ。
 どうしたらわかってもらえる? ううん、バレちゃだめだ。ふたつの気持ちがくっついては離れる。止まったはずの涙が、違う意味を持って再び流れそうになって。私は必死に目を閉じて堪えた。
「泣かなくても大丈夫だよ。ああ見えて、瑞穂は名前ちゃん想いなんだから」
「……知ってるもん」
「名前ちゃんも、か」塔哉さんは微笑む。
「そうだけど」
「はは、今は随分と素直なんだね」
「そんなことないよ」
 素直だったら、塔哉さんに好きだって言えている。幼なじみというアドバンテージ以上のハンデが私の恋心にはいつも乗っかっているんだ。……素直になれるわけがない。
 もう一筋、涙が流れてきた。さっきよりもずっと、ずうっと重くて悲しいものだ。もっと可愛い女の子がいいのでしょう? もっと優しい女の子がいいんだよね。私なんか今更なれっこない。そんな女の子になれっこない。
 幼なじみじゃなきゃ良かったのに。私のことなんか、気にかけないでよ。そしたら、クラスの男の子に恋をしてオシャレをして、普通の女の子に変身できたかもしれないのに。
「塔哉さんのバカ」
「はいはい、瑞穂のところに行こうか」
「バカ」
「名前ちゃんも反抗期かあ。これから大変だな、瑞穂は」
 なんにもわかってない、塔哉さんは。いつまでも妹扱いしないで。優しくしないで。その気がないなら、放っておいてよ!
 私はいよいよ、家に向かい始めた塔哉さんの背中を引き止めた。彼が不思議そうな顔をするけれど、私はからしたら不思議でもなんでもない。背中越し、涙だらけの顔は見られていないから、ここぞとばかりに雫が溢れてきた。
「塔哉さんなんか、嫌い」
 そして出てきたのは、精一杯の告白だった。それなのに塔哉さんは笑いながら「それは悲しいな」なんて言うんだ。悲しいのはこっちだ、バカ。バカバカ。嫌いだ、嫌いだ。嫌いに、なれたらいいのに。

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