短編

□髪よりも潤う
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 言わずと知れたプロ野球選手、友沢亮は冷静沈着かつ万物無関心な寡黙男である。ただこれは一般論に過ぎず例外も存在した。彼の本職である野球と伴侶のことだ。最も前者はそうでもなければ生ける価値を見出す前に野垂れ死ぬこと近しくあるが、後者は専ら彼の世間でのイメージと甚だかけ離れること遠い。この物語は友沢亮が愛して止まない名字名前との生活を切り取った叙情詩である。

 名前が長い髪を滴らせて彼のもとへと歩み寄っていく。首にかけたタオルに落ちる雫は冷えているのに、彼女自身は頬を火照らせて湯気を立てていた。
「友沢くん、お風呂空いたよ」
「ああ」友沢は立ち上がるが、眉をひそめた。
「おい、髪がまだ濡れているだろ」
「待たせちゃうから。ここで乾かすよ」
「それなら俺がやる」
 その手にはドライヤー、一秒でも早く友沢へ一日の疲れを流してほしいとのなんとも名前らしい気遣いである。しかし、それを黙認する彼ではなく赤みを帯びた温かい手からドライヤーを抜き取り、再び腰を下ろした。
「じゃあお願いします」
 彼女にとっては誰よりも嬉しい優しさ、断るのは彼のためというよりむしろ自分のためのようだ。はにかみながら名前は友沢の前に座り込んだ。
 その小さな身体を自身の長い足で守ってやり、濡れた髪をひとふさ掬った友沢は自身のものと全く別物の絹に動きを止めた。無論、名前の目は顔だけのもの。そのことには気付く気配もない。彼は気を取り直し、水で重くなった髪に温風を当てたのだ。
「熱かったら言ってくれ」
「ふふ、わかった」
 名前の髪が風に流されて揺れる。その一本一本のなだらかな動きにすら愛おしさを感じてしまった友沢は、我ながら彼女のことには重症だと呆れ笑う他ない。ふと、彼女の黒髪が自身の指の隙間から垂れていくのを見た。綺麗な髪だな、と思うのだ。
「なんか安心しちゃうな」口を開くのも見えずして、突然呟かれた。
「そうか?」
「お兄ちゃんだからだね、きっと」
「……ああ」
 機嫌のいい名前とは対照的に肩を落とす友沢。温度の高い彼女に決して妹とは言えない魅力を少なからず感じている最中の彼にとっては痛恨の一言であった。なにを煩悩だらけの、と溜め息に乗せて捨てると、口を開くのも億劫なようで、徐々に会話が無くなってきた。
 しかし、名前が心地よさに後ろ髪を引かれ、友沢の胸に身を寄せた。突然のことに彼はあわててドライヤーの電源を落とし、彼女との障壁を取り払った。
「でも、やっぱり友沢くんだからかも」
 極めつけにはその文句。風呂上がり煙上がりの甘い黒髪が友沢を後ろ姿で誘うものだから、彼は世間様からの目を忘れた友沢亮に成り下がるのだ。
 名前の髪を硬い手に掬い上げ、引き寄せられるように口付ける。まだうっすらと水気を含んだ髪は友沢に潤う甘美を与え、ああもっと潤ったものを口にしたいと欲を掻き立てた。探せば、ある。その自分を誘って離さない髪の持ち主だ。
「名字」
「うん?」
「こっち向け」
 疑問符と共に振り返る名前の唇を強引に奪う。髪とは比べものにならない甘さだ。友沢は甘党ではないにも関わらずその毒性を素直に認めた。これは癖になる、そんな感触を、食味を、たった一度でやめられるだろうか。引き合わせては解け、彼女を見つめてはまた愛おしさを感じ、惹かれていく。そうして、何度も何度も名前の声も息もすべて吸いつくしてしまいたいと彼は思うのだ。

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