短編

□ずっと握り合って
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 グゥスカ、グゥスカ。この世で一番幸せそうな顔をして寝ているこの人は、私にとってこの世で一番の人。こんなに可愛い顔をしているの、こっちが幸せになっちゃいそうでしょう。でも時間ももう昼時、そろそろ彼を起こさなくてはと身体を揺すった。
「起きて、朝はもう終わっちゃったぞ」
「ううん、まダ……」
「まだじゃないんだからあ、もう」
 それでも夢の中から帰って来ようとしない。ぽっかり開いた口から時間稼ぎにでも、と垂れてきたヨダレをティッシュで拭う。マイペースなこの人はまだと言ったら、本当にまだ起きない。寝かせてあげたい気もするけれど、今日は久々のお休みなのだ。いくら可愛くても、ダメなんだから。
 先日、「明日は名前の好きなところ、どこにでも連れて行ってあげるヨ!」と公言していた口はこれか。そう摘み上げたところで、私はため息をつく。しかし、そういう時にこそいいアイディアってやつは湧いてくるものだ。
 ふふ、ちょっとイタズラしちゃえ。私にもしも尻尾があったとしたら、紛れもなく悪魔様からいただいたものだ。なにも考えずして知らない世界へ旅立つ彼に影ができた。私が覆いかぶさったから。
「見てなよお」
 私の良心は今からイタズラしますと届くはずもない一言を添えたことで跡形もなく消えていった。さあ、と代わりに現れたのは満面の笑みをした加虐心。手始めに私は彼のベッドへと潜り込んだ。
 体温が私より高いアレフトはそれだけで温かくて、こっちが破顔してしてまう。いいえ、ダメダメ。頭から風船のように離れていきそうになった本来の目的を手探りで引き戻してから、私は彼の顔を覗き込む。一緒に暮らしているのだから当然といえば当然だけれど、いつもはサングラスで隠れているのに私の前じゃ惜しげもなく素顔を見せてくれる、これが彼女としては嬉しいんだな。って、もう、違うよ。そんなことを感じるためにこうしたわけじゃないんだから。
 彼に手を伸ばす。そのまま頬を包み込んでやったはいいけれど、おもむろに飛び出してきたのは先ほどの比にならない愛おしさ。野球をしている時はあんなにかっこいいのに、誰も知らない七井=アレフトは私にこうされても危機感すら持たずに目を閉じている。溢れ出てても枯渇する気配のない想いに押された私は、本当に好きにしちゃうぞと顔を近づける。いつもは至近距離になってしまえば恥ずかしくなるのは私の方だけれど、あの力強い瞳に弱いのだ。今はなんの問題もない。
「アレフト」しかし、私の頬は赤く染まる。
「好き、よ」
 何をしようとしたんだっけ。イタズラ? どんな? 彼の綺麗な顔を見ていたら忘れてしまった。代わりに出てきた言葉は、私がずうっとアレフトに抱いていた気持ちだけれど、口にしたことが稀なものだから自分が驚いてしまった。
 フタをするようにそっと彼へ唇を落とす。やっぱり私より熱くて胸の奥が甘く痺れた。私にしてはダイタンなことをしてしまったと、名残惜しくも唇を離そうとした。
 しかし、それを許さない腕が目を覚ます。それまでは投げ出されていたはずの腕が帰ってきて、私の後頭部を逃さまいと押さえた。こんなことをするのはひとりしかいない。たった今、目を覚ましたとでもいうの。絶妙なタイミングだ、こんなの聞いていないよ。
 彼の唇もやがて動き出して、私のそれを翻弄し始める。口先で遊ぶ彼へ食べ物じゃないよと冗談を返す余裕もない。離れない唇はついに外からの舌で突かれた。思わず、いいえ、彼が大好きな私だから素直にその戸を開いてしまえば、容赦なく生温いものが入ってくる。遠慮なんて言葉、アレフトが知っているとでも思うでしょうか。私を見つけると彼はたまらなさそうに絡め、それに応えて愛し合う。
 人には触れさせないところで水音を立てることははしたないけれど、私も彼も夢中になって求め続けた。
「はあっ、アレフト……」
「名前、なかなかカゲキなおはようだネ」
 やがて解放された唇はどうにもこうにも熱い。それでも野球で鍛えられた力強い腕はまだまだ私に絡みついているから、謙遜もできずに頬が染まってしまう。すると、彼にイタズラをしてやろう、そう思った時の表情と似通ったものを彼が私からすでに奪っていたことに気づいた。
「どうしたノ? 好きって言ってくれたり、名前からキスしてくれるなんて珍しいネ」
 まさかと自分の耳を疑った。キスで起きたわけではないようだ。
「い、いつから起きてたの!?」
「名前がベッドに入ってきてからだヨ」
「もうっ、それならすぐに起きてよー。今日は私の好きなところに行ってくれるんでしょう?」
「ウーン、そのつもりだったけド」
 アレフトはベッドの中で私を抱きしめると、そのまま頭を撫でる。これで私の逃げ場は完全に失われてしまった。
「こんなにキュートなことされたら、ガマンできなくなっちゃったヨ」極めつけはこの台詞です。
「も、もう……アレフトったら」
「名前が悪いんだからナ」
「……しかたないなあ」
 そんなことを言われてしまえば、私は為す術がありません。アレフトの目はもう私の心を掬い上げて離さないから、今日はおそらく外出する予定は消えてしまっただろう。
 ずるい、さっきまではあんなに幸せそうに眠っていたのに。自分勝手だ、その反面どこかでこのワガママな彼が私を振り回して振り回して振り回しまくって、腕をずうっと離さないで欲しいって思うの。
 アレフトの固い胸に頭を寄せれば、「ハハ、名前も甘えんボだネ」なんて都合のいい言葉が降ってきた。またまた振り回された私は自然と微笑んでしまう。
「アレフトが悪いんだからなあ」
「それならしかたないナ」
 結局、悪いのはどちらでしょう。私も彼を振り回しているのなら、この手を離すことは、きっとないよね。

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