短編

□間に鏡を隔てたような
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 授業を終えた教室の中、私の憂いだ目に映るのは尊が彩理を口説いている場面だ。穏やかに微笑む彩理は私と仲がいいこともあってか、尊を異性としてはまったく相手にしていないのに、アイツといえば今日も可愛いだのなんだの息をするように囁いている。
 私も付き合う前こそは、彩理に負けないほど口説かれてきたというのに、彼女になった途端にパタリとそれは止んだ。以降、彼のナンパの中で私は遠巻きに眺めるもののみになっている。正直に言って、気持ちいいはずがない。アイツは強引でワガママで喧嘩っ早くて……腹の虱潰しに悪いところを上げはするけれど、どうもこの苛立ちはそう簡単に収まりもしなかった。
 席を立った私は手持ち無沙汰もいいところなので、彼女の弟のもとへ行くことにした。誠も無類の女好きだけれど、特定の女の子がいるならば彼の名前の如く誠実な男になるらしい。彼のことを理解しているのかあまり信用できない彩理情報を片手に、尊よりかはマシだと彼の席へと近づいていく。
「おや、珍しいな」
「暇だから」
「そうかい」
 私に気づいた誠は特に深くは聞いてこない。あらかた、姉を盗られて彼自身も私と変わらないのね。それならと彼の前の席に腰を下ろす。
 尊の目はなおも彩理のものだ。私が見たところで、こっちに向くはずもない。そんな私をどう思ったのか、目の前の彼は乾いた笑いを吐き出した。
「神成が気になるのか?」
「……べつに」
「確かに、本命の女性に対する態度じゃないね」
「ちょっと、人の話聞いてた?」
 ちぐはぐな会話が繰り広げられはするけれど、本命の女性という吹けば飛ぶたった一言にどこか気恥ずかしくなっていた。単純な私、今は怒っているんでしょう? 落ち着きなさいと口元を引き締める。
 誠は目敏いことに、それを見逃さなかったらしいのです。「もう少しで君の機嫌が直りそうだったにね」と呟くその人に、意外と女の子以外のことを見ているのだなんて俗的な考えしか湧いてこない。いいえ、その前に私は女の子でしたね。彼にとっては、だけど。誠は部活で見知った顔ふたりを眺め始め、私といえば見たくもない光景をわざわざ、と目を逸らしたのだ。
 尊め、私だって女の子なんだぞ。なんで彩理ばっかりなのよ。ムシャクシャをそのまま顔にひけらかしていれば、誠が私の頭に手を乗せる。
 虫の居所が悪いはずなのに、そうされてしまえばどことなく穏やかな心地に包まれていくのを感じた。背徳的でしょうか、尊じゃないのに。でも、彼だって私以外の女の子を口説いているじゃない。素直に目を閉じれば、誠は親指で私の額を撫でた。
 しかし、その優しい感覚は長くは続かなかった。
「なにやってんだ虹谷!」
 尊だ。誠が私に触れていた腕を掴み上げて、彼を睨んでいる。さっきまで彩理しか映していなかった目は彼が持つ角立ったものと絡んで鋭く光っていた。彩理に見せていた子供のような笑顔とは似ても似つかない。
 クラスメイトたちもこの不穏な声に息をのむ。
「女性が悲しそうにしていたから慰めただけさ」
「テメッ……誰の女かわかってんのか!」
「誰の女、ねえ」
 一触即発な空気の中、自分の腕から尊を払った誠は、再び私に手を伸ばす。火に油を注ぎ薪までつっこんでしまった彼は、尊の拳を握らせるのは十分だった。着ている制服までがブチッと小さく悲鳴をあげて、尊はただでさえシワが絶えない眉間をくしゃくしゃにしながら、いよいよ誠の襟根を引き上げる。
 これはさすがにまずい、ケンカ同然の光景に私はあわてて彼らの間に入り込んだ。その時、初めて尊は私を目に映す。やっぱり、彩理はこんな濁濁しい色の瞳にはいないのでしょう。まるで重たい何かを背負ってそうな顔をした私が彼の目にいた。
「んだよ」
「ケンカはやめてよ」
「名前は関係ねえだろ!」
「あるよ!」
 こうなってしまった尊は誰かの言うことなんて聞くはずもない。それは私が一番よくわかっている。だから、どうしたらいいかなんて解決策は最初からあるはずもなかった。
 それなら、だ。尊と誠の間に私一人分の心もとない距離を作って、力任せに叫んだ。
「尊と私が悪いんだから!」そうよ、もとはといえば。
「私より彩理ばっかりじゃない、彼女は私なのに。嫉妬した私も悪いけど、尊だって悪い!」
 私の周りにはクラスメイトたちが聞いている。誠、彩理だっている。そんなことは私の頭に入り切らなかった。一度漏れ出した怒声は口なんて門にもならないと大勢で飛び出していく。
 必死だった、とにもかくにも。ケンカを止めるため? ううん、そんなものは初めの一歩を踏み出したと同時に潰された。今はもう、彼への不服不満を申し立てて自分の癪を鎮火させることしかできそうになかった。
 尊は珍しく何も言い返さずに、一丁前に気に障った顔だけをしている。
「前は私にだって声かけてたくせに……」
「そ、それは付き合ったからだろうが!」ようやく彼は口を開いた。
「なにそれ、わからないよ!」
 そうだ、彼は今だって彩理を口説いてるじゃない。付き合ったからだなんて意味がわからない、それならむしろ他の女の子に声をかけなくなるものじゃないの? それとも、私が尊にとって彩理よりも魅力がないから?
 ロクなことを考えられない頭は脆くて悪い方へと駆け下りていく。しまいには、ドン底へ近づいていく私にすぐさま泣けと命令してきたの。溢れてくる涙が悔しい。尊のことが好きなのに、私はそう思われていないのだと認めてしまったようで。
「も、尊の、ばかぁっ……!」
「……っ、バカヤロウはテメェだ!」
 しかし、私の涙は電池が切れた時計の針のように微動だにしなくなってしまった。なぜなら、尊が私を引き寄せて腕に握り込んだから。
「名前が本気で好きだからに決まってんじゃねえか!」私はハッとする。
「本気のヤツには……何度も言えるわけねえだろ!」
 そして、彼の顔を見上げる暇もなくシャツに涙が押し付けられた。どんな光も私たちの間に入り込めなくて、私の視界は真っ暗だ。おかげで涙すらどこにあるのか見当たらない。
 尊が私のことを本気で好き、彼の声が私の気持ちも鼓動もなにもかもどんでんとひっくり返してしまって。私は何も見えないのに、顔身体が真っ赤になって熱いことがありありと伝わってくる。けれど、私をこんな風に一変させられる人は彼しかいないと思った。それだけ、私も尊のことが好きだから。
 しかし、私たちの間に光は入り込めずとも、音は入り込めるようだった。耳から聞こえてくるクラスメイトたちの囃し声や「なんだ、結局のところは相思相愛も過ぎるじゃないか」「フフ、ふたりとも仲良しだものね」と虹谷姉弟の会話に、私はもうしばらく彼に二人分の温かさ上回った熱い恥を浴びていてもらおうと、背中に手を回したの。

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