短編

□恋すらひれ伏す
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 僕は何があっても野球だけは手放すわけにはいかない。何があっても、だ。そうだな。例えば、友沢くんを手に入れられなかったり、僕の実力を恐れてか勝負を敬遠されたり。強者はこう見えても肩の凝る荷物が多くてね。僕はその度に、他の人では抱えきれない重圧を抱えてきたのさ。
 しかし、毎度毎度それを「しょうがないな」と微笑みながら小さな手で持ってくれる人がいた。僕を親身に受け止めてくれる彼女の存在は、今もなお最強に相応しい僕の隣にいる。
「考えごと?」
「フフン、僕のすばらしさについて考えていたところだよ」
「そっかあ」
 僕の顔を覗き込んできたのがまさにその彼女だ。僕らは生まれてからずっと一緒にいた幼馴染、名前は僕のことをよく知っている。楽しかったことも、そうでなかったことも。だからこそ、彼女とはこれから先も共にいると思うんだ。いや、思うんじゃないな、共にいる、だ。
 僕を包み込む名前には素直に好意を寄せていたし、必要だと思っている。それに、僕が手を伸ばせば笑う愛くるしい表情、これ以上に心をくすぐる女の子の笑顔はない。
 彼女は僕に安らぎをくれる。胸の高鳴りや身体の血潮が大急ぎで巡ったりすることとはかけ離れた、穏やかでずっと触れていたい心地、恋と呼ぶのにはそれこそおこがましい気がした。いいや、むしろ僕を掴んで離さない口当たりの崇高な感情に名前をつけようとすることすら、天に唾を吐くようなものだ。
 考えて見つかるものではないし、見つからないのもまた趣き深いと僕は彼女の髪に手を伸ばした。いつものように撫でてやろう、と。こうすれば彼女の顔はピンクの喜色に染まるのだから。
「あの、龍、ちょっと……」
 しかし、今日は何かが違うようだった。彼女は僕の手からそっと離れる。今まで名前の頭を撫でたことは両手両足で数え切れないほどあったけれど、こんな仕草を返されたことは一度もなかった。
 どこか具合でも悪いのだろうか。珍しいどころか初めての彼女の姿に、今度は僕がその顔を覗き込む。
「どうかしたのかい」
「……あ、ごめん」やはり、いつもの名前ではない。
「いいや、僕は大丈夫さ」
 そう口で返してはみたものの、僕からしちゃあ気になって気になってこれでは夜も眠れない。名前のことで、僕が知らないことなどあってほしくはない。それは十数年幼馴染の役目を熟してきた彼女にもわかったのだろう。一昨日の晩御飯を思い出すよりも簡単なことだろうから。
 おずおずと口を開いた彼女を、僕は見ていた。
「あの、龍に話さなきゃいけないことがあって……」
「うん、なんだい」
「……私ね、彼氏ができたの」
 僕の頭が白くなる。なにも考えられなくなる。ただ、彼氏、と呟いただけの使えない脳ミソは時間をかけて、ようやく辞書からその意味を導き出した。彼氏、つまり、彼女に大切な人間ができたとでもいうのか、僕以外に。
 そして気づいた。彼女の小さな唇から放たれたのは、とんでもなく大きな刃だったことに。僕は遅れをとりながらも貫かれた胸を手で覆う。
 もちろん、僕に怪我はない。しかし、本当に血を流してしまった方が楽なのではないか。僕は自分から覆った箇所を引っ掻く。それほどに彼女の言葉は鋭利で、そのくせ君らしくも優しいのだから、上手に身体を避けて僕の心だけ抉り出した。
「だから、もうこういうことは……」
 そっと名前が僕の手から離れていく。髪がごめんねと僕の指の隙間をすり抜ける。それが思った以上に虚しくて、寂しくて、僕は思い切り彼女の身体を引き寄せた。小さな悲鳴をあげた名前なんて、知ったものか。
 腕の中にいる。いつもより近いはずなのに、彼女の頭を撫でる距離の方がずっと心地よかった。近くにいても、どうしようもないんだ。何かが違うんだ。
「龍、やめてっ」彼女が必死にもがいている。
「やめないよ」
「なんでっ」
「……気にいらないからだ」
 そう、気に入らない。僕が知らないうちに名前が彼氏を作っていたことも、名前のくせに僕に対してこんな顔をすることも、胸が痛いことも、なにもかもすべて。
 僕たちは恋なんてもので離ればなれになるはずがない。僕の隣はいつだって名前で、彼女の隣はいつだって僕だ。わかってはいるのに、僕の心や身体は震えあがる。
 考えごとをしていたからか、藻掻いていた名前が僕の腕を強引に解いた。しまった、と思ったのは手がもぬけの殻になってからだった。
「龍」彼女は僕を鋭く睨む。
「私は、龍よりも好きな人がいるの」
 そのひとことといったら、名前を抱きしめるほどの力が残っていた僕にトドメを刺したほどだ。これで晴れて任務完了とばかりに彼女は軽々しく、そのくせ躊躇いもなく言ってのけた。
 力の抜けた僕は目を閉じた。もう彼女の姿は見えない。暗く静かな視界が僕の頭を空にさせた。彼女じゃない、この暗闇がそうさせたんだ。必死に藻掻いているのはどっちだろうか、そんな愚問もなにもかも暗闇に消して僕は身を任せる。
 ただ、彼女に刺された傷だけが痺れていた。痛かった。一番近くにいたのは僕、これからも変わらない。そう思っていたのは僕だけだった。彼女は恋だかなんだかに身を売った。哀れな女だ。そう思うことで、幾分自分が正しいような気がした。
 
「おーい」彼女の声がする。
「聞いてるのー?」柔らかい声だ。
「龍」さっきのものとは違う。
「こーら」
 僕の目は何も映さないまま身体だけが揺れた。この穏やかな声の主の手が僕に触れている。そっと瞼を開くと、待ってましたとまばゆい光が僕を覆っていた黒を食べ始める。その勢いに目を細めたものの、やがて見えてきた名前に僕はようやく瞬きをした。
「おはよう」
「……寝て、いたんだね」
「もう、何言ってるの。それはそれは気持ちよさそうにね」
 ベッドの余白に腰をかけて笑う名前は、あの拒絶を起こした人物と同一には見えなかった。それほど、僕が欲しくて欲しくてたまらない名前の顔、声、距離、すべてがあの悪夢の前のままだった。
 もしかして、本当に悪夢だったというのだろうか。淡い期待がこみ上げて、僕は起き上がり彼女の髪に手を伸ばす。触れようかとする位置で、僕の手は止まった。彼女は離れるだろうか、しかしそんな気配はない。
「名前」そっと髪に手を乗せた。
「なあに」
「……平気、なのかい」
「うん?」
「いや、なんでもない」
「へんなの」
 僕に撫でられたまま、名前は普段通りに微笑む。やはり、あれは僕の夢だったのだろうか。いいや、まだ確信はできない。
 先ほどの出来事が幻か現実か、それを調べるのは簡単なこと。名前に好きな人がいるかを聞けば済む。しかしこんなことを聞くのは、と気が引けた。僕のような最強の男がたかだかひとりの人間の感情に振り回されているなんて、考えただけで鳥肌が立つ。……それでも、それ以上にあの出来事には身の毛がよだった。
 胸の天秤が傾いたところで、僕は名前を見る。彼女は僕の手をすんなり受け入れ、頭を預けていた。
「聞きたいことがあるんだ」
「今度はなあに」
「名前には、その、好きな人がいるのかなと思って、ね」
 下手に口が動くものだからつっかえ混じりだ。それを名前はまん丸の瞳で見届けると、声に出して笑い始める。途端に僕はこっ恥ずかしくなった。失礼なヤツだ、こっちは別に興味があるわけでもないのに。ただ、真偽を確かめるだけなのに、だ。
 彼女を小突けば「ごめんごめん」と目まで擦ったなんとも腹立たしい謝罪が返ってくる。泣いてもないくせに大袈裟で、この話題を早々に畳みたくなるわけだよ。急かすように再び指を突けば、ようやく彼女は口を開いた。
「いないよ、そんなの」
「……本当かい」
「本当だってば」
 やっと、肩の荷がなくなった。今この瞬間、あの悪夢が本当に悪夢であったことが証明されて、僕は凝り固まった首を回した。コキリと鳴る。
 しかし、僕の重圧を一緒に支える彼女が僕の上に乗ってどうするんだ。夢であったとはいえ憎たらしい、そんな名前を仕返しだと睨んでやれば、彼女は正反対の表情を作る。
「龍のことで手一杯だもん、そんな暇ないよ」
「へえ」
「私がいなきゃダメだもんねえ、キミは」
 そして、見事に僕へ乗せてきた荷ばかりかすべて持っていった。力持ちな彼女は、こんなことを当然のようにやってしまう。
 ずっと一緒にいた彼女は、これからも一緒にいる。そう思っていたのは僕だけではなかったらしい。当然といえば当然のことだけれど、その事実に胸が膨らむ。温かさに傷も癒されてしまおうとするが、そうだ、最初から傷などないんだ。
 つくづく、彼女はジグソーパズルのように僕の手とぴったり当てはまる女性だ。恋なんてものに現を抜かすことは彼女にも僕にも必要ない。他のピースと手を繋げば歪な形になってしまうのだから。ただ、この撫でる手を喜ぶ存在がここにいればいい。そうすれば、僕はどこまででも彼女を連れていける。

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