短編

□形なき帯刀
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 なんといいますか、私がこんな場面に遭遇するとは夢にも空想にもありませんでした。夕日傾く夜へ移り変わり時、友達と手を振り別れた私は人影絶えた道を歩いていました。ですが、後ろめたさもなにもないというのに、私の腕が唐突に後ろ髪を引かれたのです。心の準備もなにもない身体が大きく傾いて、私は不格好な姿勢のまま首だけを振り向きました。
 そこには見知らぬ男性が、握るほどの価値があるのか皆目見当もつかない私の腕を掴んでいるではありませんか。この肉も骨も千篇一律のつまらぬものを折ろうかと握り滾る男性に私が悪寒を覚えてしまうのも致し方ないお話というもの。強引に振り払おうと小さな力こぶを振り絞りました。
 しかし、男女の差とは明確たるもののようで決死の袖振りなど男性と繋がれた腕橋を揺らすだけに収まってしまいます。男性は私を見て、私は男性を見ました。ようやくかち合った瞳同士はまるで種類の異なる生物のよう。男性は卑しく長短バラバラの無精髭を広げて笑い、私は激しい悪寒を過ぎ「早く逃げなさい」と生理反応が身体を駆け抜けました。
 それに従わない手はありません。この人は誰でしょう。どうして私を引き止めたのでしょう。何をしようとしているのでしょう。疑問符は消えることなく増え続けますが、今は考える暇もありません。とにかく、身の毛がよだつような心地の悪さを醸し出すこの男性から一刻も早く離れなくてはならないのですから。しかし、一度逃れることに失敗した私めに再びチャンスなど無く、いくら火事場の馬鹿力を振りかざしても男性にはビクとも効果がありません。
 舌なめずりでもしそうなほど嬉しそうにそして厚ぼった唇で笑う男性は、私の恐怖心を掻き立てて震え上がらせます。誰か、誰か助けてください。やがて、他のアテを探しながら愚かしく泣き出す私は、さぞかし駆け馬に鞭でしょう。しかし、それしかもうできないのです。
 怖くて、怖くて。どうしてしまおうか。いいえ、もうどうもできない。四方八方塞がれてしまい、逃げ道すらありません。
「何をしていル!」
 しかし、そんな私を神様は見捨てていなかったようなのです。野太く地を這うような声が私の腕を守り、男性を襲いました。咄嗟に自分のものだと彼から手を離れさせれば、代わりに別の方が男性の腕を掴んだのです。
 声の持ち主でしょうか。身体の大きさ、髪の色、瞳の色、風格、そのどれもが規格外で日本人離れしています。腕を捕まれた男性は、私が彼に変わったことへすぐさま飛び退き、猫のように逃げていきました。これにて、ようやく私の悪寒とも言える震えは止まったのです。
「あ、あの」
「大丈夫だったカ?」
「えっと、お陰様で……」
「……そんなことはなさそうだナ」
 私が大事そうに抱え込む腕へ、彼は手を伸ばしてきて。その光景で身体中から忘れたはずの恐怖に見回れた私は、考えもなしに彼の手から後ずさってしまいました。ついでに、幽霊でも見るような顔も。
 この方は私を助けてくださったじゃないの、何をしているの。叱責も今の私には上手に届かず、謝ることすらできません。そんな図々しい私を見て、潔い彼は私ができないことをすぐに行動に移してきたのです。
「す、すまなイ! 先ほど怖い目に遭ったばかりだというのニ、配慮がなかっタ」
 それは、私がすることじゃないか。彼が頭を下げる義理など無いと、ようやく渋っていた身体が動き始めました。私は慌てて同じように頭を下げます。なんと言っても、この方は恩人なのですから。これくらいは、当然のことでしょう。
「こちらこそ、助けてくださったというのに失礼なことを……!」
「いヤ、これは武士道に反したオレの問題ダ!」しかし、彼は引く気などなさそう。
「ぶ、武士道……」
「そウ、武士道ダ」
 大きく頷いたのは、外見に合わずこれまた随分と日本人らしい方です。ちょっとだけ片言な日本語も、相当学ばれたのでしょうか。武士道、今の日本人ですら一目置く方は少ない考え方に心酔する辺り、彼は本当に誠実なのでしょう。
 先ほどの男性を思い出したのか「ああいうヤツほど武士道を進むべきだナ」と腕を組む彼は、きっと素敵な方。出会ってまもなく、私はそんなことを考えていました。
 そう思えば、組まれた腕に恐怖を覚えたことがバカみたいで。凛々しく鍛え抜かれた太い腕は私よりもずっと男らしいはずなのに、持ち主の彼に動くなと指示されているようで可愛らしく見えてしまいます。微笑を溢してしまうほどに。
「あの、ありがとうございました」
 ですから、今度は私の方から手を伸ばしました。見知らぬ男性に捕まれた腕、こちらで応えなければと私の背中を押したのです。
 彼は、頭の中で武士道を駆け抜けていたのでしょうか。私の手をしばし見つめては返そうとしません。けれど、こうして手を差しのべられたのもひとえにこの方のおかげです。腕のひとつやふたつ、喜んで献上させられたらいいのに。ただ、腕はふたつしかありませんが。
「……怖くないのカ?」
「ちょっとびっくりしただけです。怖いものですか」
「そうカ、それならよかっタ」
 彼はやっと私と握手を交わして下さいました。見た目通り、固くて大きな手です。スポーツでもされているような。私の指がスッポリ覆われるほどに力強い指で握ったくせに、もっと力持ちなのでしょうと言いたくなる優しい手の抱擁でした。
 そんな小さな心遣いも、武士道とやらなのでしょうか。見込みに寸分のズレもなく、やはり彼は素敵な方だと思いました。
 この大きなお侍さんに手を委ねて、小さな救出劇を忘れまいとそっと胸へ刻みました。いつか、またどこかでお会いできるでしょうか。いいえ、できなくとも私の中の武士は、まさにこの方なのです。

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