短編

□眼鏡の向こうに赤い灯
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 彼女は時々、私たちの練習を覗きに来る神出鬼没、風向くままに歩く女性だ。なお、彼女とはチームメイトの姉である。私たちより一回り年上の彼女は、同年齢の中で探しても雲をつかむどこか類稀な性格をしているのではないかと私は思う。なぜなら、生まれてこのかた女性とは関わりを意図的に絶ってきたとも言える私を可愛いと呼んだからだ。
 可愛いとは赤子のような丸々円ら顔や瞳、庇護欲を掻き立てる中小、手に抱えられるもののことを言うのではないのか。少なくとも、私はこの齢十六七の間はそうだと盲信して生きてきた。
 私が自身の変化球へさらに磨きをかけようとグラウンドで試行錯誤している時、彼女はひょっこりと現れた。
「あら、蝶野くん」
「辰猪さんか」
「もう、辰猪さんじゃ一八と見分けがつかないでしょ。名前でいいってば」
 その弟とは似ても似つかない女性だった。確率やらなにやらの理屈もその場の雰囲気、強運豪運だったかが引き寄せる科学では証明しきれない浮わついた話も、パワコロも、なにもかも彼女は興味がなかった。
 私は彼女について、詳しいことは知らない。ただひとつ、変わった女性であることしか知らない。
「ほうら、呼んでみて。名前さんって」
 そう言って私の髪を撫でる彼女を払い退けることも、情けない顔をすることもなく、されるがままの私がいる。
 この時の私は、もちろん名前さんと呼ぶなど負けを認めたようなことはしない。この気恥ずかしくも湿り気多い時間を耐え忍ぶだけであった。
 
 だから、その転機は確実に大きなダメージを与えることとなった。グラウンドで無闇にボールを投げる前にと理論を構築し、効果的な方法を模索していた時のこと。彼女は私の前に姿を見せた。辰猪よりも鮮やかな黄土色の髪を靡かせ、耳にかけた彼女はやはりいつ見てもアイツの姉だとは信じがたい。
 彼女は私の顔を覗きこんで来る。私よりも背が低い女性は、今この時だけ年上だということを忘れてしまう。しかし、今日に限ってその要因がもうひとつあることに気付いた。
 眉を下げて微笑む彼女は、いつもの元気な顔ではない。大きな瞳に珍しく影を落としている。少なからず、私が見てきた彼女とは別の人間ではないかと思ってしまう儚い少女の様に、思わず唾を飲んだ。これは不可抗力である。
 私と目が合えば、彼女は静かに笑う。ここからはいつもの彼女に戻ってくれることを私は切に願っていた。手元が狂うのを私は好まない。
「蝶野くん、私」
 艶やかな唇からなにが飛び出すかを私は今か今かと待った。私や辰猪とは異なるそこは言葉を吐き出そうとして咀嚼したりと忙しなさげだ。言いづらそうにしているのは右から見ても左から見ても明らかである。
 私はお預けを食らったようで大人しく鎮座していた。投球練習のことは今だけ頭から追い出され、目の前の彼女に夢中になっていた。無論、悟られなどしては困るから耳の穴だけが突き抜けるように開いている。
「理事長に、企業の入社を勧められてるの」
「企業の入社か……」
「私、それは嫌。強運だなんて言われても困るわ」
 彼女のか細い声がようやく私の耳に入ってきた。どこかで聞いたような話だ。どうやら、彼女も強運のようだった。辰猪であれば大手を挙げて喜ぶようなものだが、彼女にしては必要のないものらしい。
 彼女の瞳は震えていた。その男気のないこと。女性がこうして困惑しているのだ、助けないわけにはいかまい。これは男としての使命だと私は腰を据えた。
 なに、彼女がどうしたというんだ。失敬。彼女ではない、女性だ。女性のためにである。私は全くもって男性諸君の鑑だ。鼻高々と掲げるべきであって、下を向いてはならない。か弱き者の人助けも強者の務めである。私はうら若き女性の肩を持つことに決めた。
「それなら、私がなんとかしてやろう」
「ほ、本当!?」彼女の瞳が今度は揺れている。
「ああ、私にかかれば問題ない!」
 見たか、私は今やこの庶民のヒーローである。女性からの輝く三嘆の眼差しほど心地よいものはない。やはり私は男性たるものの模範である。皆はこれを見習うべきだとつくづく思うのだ。
 彼女は嬉しそうに微笑む。女性の甘美な表情を肴にするのは至って痛快であった。
「ありがとう、蝶野くん!」
「フハハハ! 当然だ!」
 理事長にでも見せてやりたいくらいだ。貴方の一言で陰がかった彼女の表情は、私の一言で晴れやかに輝き始めたのだから。私の爪の垢でも煎じて持っていってやろうか。
 英雄の役割に尽きはないなとほくそ笑むと、彼女は私の手を握ってきた。握手会か。やはり英雄は多忙だ。
 しかし、彼女の頬は赤く染まっていた。揺れていたはずの瞳にもその色が住みついていて私を映している。これは本当に辰猪の姉だろうか。名字を見ろ、髪の色を見ろ。いらぬ疑問が浮かんでは掻き消えた。
「蝶野くん、可愛いと思っていたけど……かっこいいんだね」
 しかし、粒子にまで掻き消されたはずの疑問が互いに引き合って再構築された。誰だろうか、この女性は。英雄である私を称え、賞状でも送るには些かセリフが違うのではないか。馬鹿にしているのか。
 そう言ってやりたかったが、私の頭はだらしなく彼女の声が聞こえては跳ね返っていた。目の前の娘は赤いままの顔でニッコリと笑っている。彼女に触れられた手が熱い。
 どういうことだろうか、私はどんな状況に陥っているのか。前代未聞の感覚に私の中のデータでは処理し切れない。だが、これが男の鑑であっていいのだろうか。いいやならん。せめて、私の体裁だけは守らねば。私は今や彼女の英雄となる男なのだから。
 咄嗟に口任せで自分を守る。この際、何でもと彼女に唾を飛ばす勢いだった。
「フ、フフ、名前さんが困っていたからな」
「あ、名前呼んでくれた」
 が、とんでもない地雷であった。彼女はさらに近づいてきて私の目を見つめたのだ。おや、おかしい。彼女の瞳にはいつしか赤色が抜けている。どこへ移動したのだろうか。
 沸騰しそうな頭の片隅で考えたことは、そんな私らしくないことであった。

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