短編

□ふたりで育てる白馬
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「名前」
「なあに」
「ランニングに行ってくる」
「ええ、練習したばかりじゃない」
「いや、まだ足りないんだ」
 大学生になり、学校近くで一人暮らしをしていた私は、日々朝から晩まで大学に通う彼の身辺をお世話してきた。言うまでもなく、野球の練習だ。今日も夜遅くに帰ってきた太郎は、私が作った晩御飯を平らげた後だというのにお風呂前にまたもや汗を流しに行くらしい。大学のトレーニング室で潰れるほどベンチプレスを上げてきたはずなのに、なんとまあ無尽の体力を誇る野球選手だ。プロも熱視線を送るんですって。ジャージにタオル、身軽な服装で部屋を出ていった太郎を見送る。
 そんな日々が続いていたある日のことでした。私は普段と変わらない厳格な表情を決め込む太郎を見つめている。その理由はただひとつ。彼があの鋼の盾すら破ってしまいそうな眼光で囁いたセリフがあったから。
「え、えっと、太郎、今なんて……?」
「次の試合、必ずホームランを打つ。だから見に来てくれ」
 真っ向から私を見つめる太郎は冗談味などない。それ以前に、この人は元来おちゃらけとは縁のない人だから当然といえば当然なのだけど、私はこの王子様とはかけ離れた王子様の精一杯の口説き文句に目眩がした。
 愛の言葉など生まれてから口にしたこともなさそうな彼がこんなことを言ってくれるなんて。嬉しすぎて茹だってしまいそうだ。私の顔が綻ぶのも無理はなくて、不思議そうにしている彼はまったくもって不思議なの。どうしてわからないんだか、もう。

 しかし、振れば外野超え当たれば柵超えと謳われていた滝本太郎は、後にも先にもない不調に見舞われた。西強大学の主砲と呼び声高い砲台は見事に空砲止まり。いわゆるタコだったの。私はフェンス近くで彼のことを眺めていた。「滝本、どうしちまったんだよ」「マークがきついんだろうなあ」周りが太郎のことを叩こうが擁護しようが、私は彼から目が離せないでいたの。試合に関わるすべてがお前のせいだよと笑うように僅差で幕を下ろした一塁側ベンチで、グラウンドを眺める背中を。
 太郎にこちらを向いてほしいわけではないけれど、一方通行な視線に苦しくなる。彼は運否天賦のイタズラを真面目に受けているだろうから、私にも分けてほしいのに。その運命サマも情がないものです。彼が私に白い手袋を差しのべた時くらい、私をお姫様にしてくれてもいいじゃありませんか。
 その日、彼は早く帰ってきた。最強の地位から揺るぎない西強大学のことだから敗戦の日には厳しい練習が付きもののようだけれど、今日くらいはと閉じたドアが彼を守る。
 あまり感情豊かではないものの、表情を固く閉ざしているのは見て明らか。私は調理している手を止めた。
「太郎、おかえりなさい。ご飯まだなの」
「…………」
「もうすぐできるから待ってて」
 太郎は私と目を合わせずしてソファーに腰かける。物を大切に扱う彼氏にしては珍しくドカリと音を立てて。無言のままの後ろ姿はとても小さく見えて、滝本太郎の名前が泣いていた。いや、泣きたいのはきっと名前ではなく彼の方。
 私はそっと手元の火を消すと、彼の隣へ歩み寄りそして腰かける。ようやく彼より低い身長となった私の目が彼に向くと、表情を変えずともわかる、心底落ち込んでいた。言うまでもなく、今日のことでしょう。いつもはより高い場所にある短い髪に手を伸ばす。今は、私でも触れられるほど低い場所に彼はいた。
「太郎」
「……なんだ」
「今日、お疲れ様」
「気休めなら間に合っている」
「そんなことじゃ、ないよ」
 しかし、彼からの返答はすこぶる不機嫌で、私が伸ばした手すら邪魔だと振り払われそうだった。私には、私にだけは見せまいと顔を合わせない太郎。逆だよ、私だから見せてほしいのに。彼を支えてあげたい。誰よりも近くで。私は今も昔もこれからもそう思ってやまない。タイムマシンで訊きにいけるのなら、どんな私もその通りだと大きく頷いてくれるはず。
 それなのに、彼が私になにも乗せてくれないから強引に太郎を引き寄せる。男らしく逆転した立場は、太郎を小さくさせた。固まった彼は大人しく抵抗もなかった。
「すごいんだね、太郎は」
「どこを見ればそうなるんだ」
「すごいよ、みんな太郎に期待してたんだもん」
 腕に込める力を強くした。彼に比べたら足元にも及ばない力だけれど、太郎にこうしてあげられるのは私しかいないから。こんなにも大きなプレッシャーの中で結果を残す彼はそれこそすごいことなの。普通なら、そんなことできないでしょう? たまにはダメな日があったって当然のこと。それがたまたま私を連れてきてくれた日だったってだけ。私はいつも、彼の努力を一番近くの特等席で見ているじゃないの。
 太郎の鍛え抜かれた腕がらしくもなくおずおずと私の背中を彷徨う。そして、ゆっくりと繋げられた。抱き合う形となった私たちは、恋人らしい抱擁とはいかないかもしれないけれど、それでいいよね。だって、彼が求めているのはきっと甘ったるい関係ではないと思うから。
「太郎、いつもものすごい重圧の中であのバッターボックスにいるんだね」
「……名前」
「調子が悪い日があったって、太郎はかっこいいよ。声援に必死に応えようとしているの、ちゃんとわかっているから」
 慰めるなんて大袈裟なことはできないけれど、思いの丈をそのまんま膨張も縮小もなく伝えれば、背中に回った太郎の腕がより私を求めた。力強く、練習一筋な彼がここまで素直になれるのは、私を頼ってくれていると思っていいのでしょうか。
 縋るような太郎の頭を再び撫でる。やはり恥ずかしがりもなにもしない彼は、私をアテにしていた。太郎のためならなんでもしたい、私はそう思っているよ。彼に届けと願った。太郎はしばし、私の胸に顔を埋めていた。
 やがて起き上がった顔はいつも通り神妙さを携えたものだったけれど、彼は不器用に微笑んだ。その表情は今日の試合の後、ずっと待ち望んでいたもので。私は彼へ、今度は彼女らしく抱きついたのだった。逆転していた私たちも元どおり。太郎は私を抱きとめてくれて、優しく頭を撫でてくれたのでした。

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