短編

□ポラリスを照らすのは
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 静かな部室では秒針の音がいやに響き、私は彼に気づかれないように時計の針を目で追った。練習時間まではもう時間がない。しかし、私を抱きしめて離そうとしない彼は、動き出そうとする予感もなにもなかった。まるで人間同士の抱擁とは思えない、カンガルーの親子のような姿だ。私もその与えられた使命を果たすべきなのでしょうか、この薄っぺらい腹ごときで。
 滝本くんとは交際を始めてからしばらく経つものの、一に野球二に野球、三を飛んで四五野球であるからか酒やタバコ、女遊びは遠く遙か彼方に消えている誠実な人だった。だから、こうして愛欲的に私を掻き抱く行為はよほど珍しいことでした。
 腹の前で繋がれていた彼の手が離れて、そっと私の身体を下りる。たどり着いたのは太腿で、彼が本格的に目前の欲に沈んでいこうとしていることを私にまざまざと見せつける。彼の固い手のひらなど弱肉強食の世界では怖いもの知らずだというのに、今はどう。人っ子ひとりの手で掴める限界を容赦なく越えて、私を離さんとする様はいつもの滝本太郎ではない。――いいえ、むしろグラウンドで声援を受けて肥大化する姿が本物なはずがない。彼はあの仮の虚勢をもう断ち切れはしないところまで大きくして、それをようやく私には覗かせてくれたのかもしれないのだ。
 そう思うと、不埒な手のひらは幾分愛着をもって見えた。私のだんまりを都合よくとらえたからか、残されていた腹の手は相方と正反対に私を登っていく。やがて触れたのは、彼にはない膨らみだ。そこにあるのは明白だというのにわざとらしく彷徨う彼が最後の理性であるとでも言いたげに、私はじれったくて仕方ない気分になった。もちろん、触れてほしいなんてはしたないことは言いっこない。私はただ彼のすべてが見たくなっただけなの。
「滝本くん」
「……すまん」
「ううん、いいよ」
 私の声を皮切りに心臓近くを握った彼、それに跳ねる私。短く漏れた吐息を絡め取るように合わせられた唇は、謝る気などさらさら無さそうだった。それでも滝本くんは滝本くんで。悪いだとかなんとか、謝罪にはもったいない誠意だけは私に溢してきた。
 ずるいと思うの、そうされてしまえば私はただ口から意味もない言葉を鳴くだけ。彼に応えなきゃと。
「本当に、すまない」
「……大丈夫よ」
 滝本くんが苦しい時、どうしようもなく不安になった時、居場所がなくなってしまうと思った時、私はこうして彼の隣にいることを体現しなきゃいけないから。ううん、そうしたいと願うから。彼に擦り寄って囁いた。もっと、って。
 すると、彼は痛いくらいに私を弄った。痛いくらいにじゃない、痛かった。でも彼が私を必要としてくれるのなら、これ以上の幸せはない。だって、私も彼が大好きなのだから。好きな人が頼ってくれるなんて、これ以上のことはないでしょう? 滝本くんを見る。赤い顔をして、必死に私を欲しがっていた。本当に? 欲しがっていたのは、私、それとも彼の居場所?
 考えた途端、私は快感を忘れた。なにが好きな人に頼られているだ。結局のところ欲しがっていたのは私の方。かけがえのない私という存在を。それは単純で、そして明快で、決して言い逃れのできない事実。彼が入っているただひとつの生命が突かれて、やっと泣き出した。
「名字、痛いか……」
「……へい、き。ごめんなさい」
「いや、悪いのは俺の方だ」
 優しい彼は、私の涙を拭ってくれるの。これは私の自分勝手な弱さなのに。これだから、私は滝本くんが大好きなんだ。大きな手が私を撫でて、あっという間に私たちは逆転してしまう。いつもの彼に戻ってしまった。私では抱えきれなかったとでもいうのか、自身の器を恨みながらも泣くことしかできない。
 滝本くんは私に手を伸ばす。素肌同士がほとんど変わらない体温で触れ合う。首を伸ばした彼はそっと私に口を合わせた。
 それは簡単には離れなかった。離れないで、私だってそう思っている。ふたりの呼吸が混ざり合って、涙さえつけ入る隙を与えまいと夢中になって彼を感じていた。それが唇から流れてくるのはただの接吻ではないと教えてくれた。私はすべてを委ねる。瞳を閉じたまま背中に凛々しい腕が回る。優しい腕だと思った。このまま、練習もなにもかも忘れて、私たちふたりだけの世界になればいいのにと本気で考えた。涙を吸われた私から、ようやく彼が離れてしまった。あれほど隣合わせの唇だったというのに、名残惜しくなるのはどうしてだろう。
「名字」
「……滝本くん」
「すまない、傍にいてくれ」
「どうして、謝るの」彼の額に合わせる。
「俺が、どうしても隣にいて欲しいからだ」
 滝本くんの吐息が私に触れて溶けていく。こんなにも近くで熱く囁く彼に、私はいくら首を縦に振っても足りないような心地になる。あなたのことを誰よりも支えたいと、きっとそう願っているのは私なの。彼の首に絡めた腕が、誰の命令でもなく私を引き寄せる。
「私も、一緒にいたいよ」
 返事も聞かずに口付けを送る。やっと目があった彼はひどく驚いていた。勢いに身を任せて私を抱いたからだろうか、それとも他の何かか。良かれ悪かれ、私だって彼に愛されたい。一番欲しいものはその真ん中にいるのだから、と彼の名前を心で呼んだ。
 聞こえていないはずなのに、彼は返事をするように唇を咀嚼した。それは優しくて、やはりここにいるこの人が滝本太郎なのだと諭してくれた。

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