短編

□少女は紫を泳ぐ
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 事の発端はとても小さなことだったような気がします。バットがまるで金の出る槌のように大金を叩き出す、そんな錯覚に目をこすりたくなるプロ野球選手、友沢くんが買ってきたテレビは十二分に大きかった。節約家の彼にしては珍しい。猪狩カイザースにトレードされてからというもの、試合に出ない日はないからか彼はまさしく体ひとつで家庭を支えるほどの大黒柱となっていたのです。巨大な柱で手に入れた巨大なテレビとはその感動すらも肥大化して浴びせられるらしい。一枚の画面を隔てながら動物が愛くるしく仕草を振りまく姿は、私を一瞬で骨抜きにしてしまった。その可愛いこと、可愛いこと。
 だから私は、たまの休みにも関わらず彼を誘った。率直には寝て疲れを取りたいであろう友沢くん、休んでほしいとは思っています。けれど、今は残念なことにそれは二番目の願い。今回ばかりは一番目を占領しているのは他の誰かさんだと彼が膨らむベッドを揺すった。目覚めて間も無くは不機嫌ながらも、お日様に照らされるうちに、やがて私のワガママを引き受けてくれた。快諾だったのだから、この人はなんとも優しい人なのだと思う。ーー本人に言えば、別の人と間違えていると言われてしまうのだけどね。
 そして、木漏れ日差し込む明るい印象の店へたどり着いた私と友沢くんは今やベッドで体を休めることはおろか、アロマやエステよりも遥かに効果がありそうに見える毛玉を膝に乗せていた。丸々とした体つき、上品な柔らかい毛なみ、自身の魅力を知り切った顔で覗きこむ円らな瞳、奥ゆかしい控えめな鼻。私たちはいわばネコちゃんとふれあえるカフェに来ていたのです。
「ふふ、かわいいね」
「ああ」
 撫でた頭から大きく欠伸を零す彼ら彼女らは、それだけで何時間も見ていられる。魅力というよりもはや魔力を携えたこのコたちへ白旗を上げること以外はままならないほどに、私の身体の自由はすでになかった。至福の時の奴隷だった。
 すると、私が撫でていたネコとは別に近づく影がある。また別のネコ……ではなかった。人だ。エプロンをかけているから店員さんだろうか。ボサボサの髪にやる気のなさそうな目、さらには前のめりな背中でネコとはむしろ対極を成す男の人、唯一の共通点は猫背くらい。彼は私と友沢くんがいるテーブルに腰をかけた。椅子ではない、テーブルに。そして、そのまま私の膝に手を伸ばしたのだ。
「……おい」友沢くんが眉を寄せる。
「なんですか」
「それはこっちのセリフだ。なんなんだアンタは」
「別に……」
 一瞬にして不穏な空気に変わってしまったのだから、私はどうするべきかと目を据わらせた両者の間に視線を彷徨わせた。いや、そうするしかできないだけ。
 しかし、私の膝のネコはこんな状況でも店員さんの指を嬉しそうに受け入れている。というより、誰がどう見ても私よりも心地よさげな反応を見せるネコは、この殺伐とした友沢くんから浮いて見えた。とにかく、ここまでネコを上手に扱える人、そして店員さんに悪い人はいないはず。投げやりな判断で私は店員さんを見上げた。
「慣れているんですね。この子、とても気持ちよさそう」
「……アンタは慣れていないみたいだね」
「日頃、ネコちゃんと遊ぶ機会がないんです」
「へえ、そう」
 ほら、話してみれば悪い人ではないみたい。ネコに穏やかな目を向ける男の人の手はこのコの遊び道具のよう。見つけたら離さないよとネコが夢中になって戯れている。これには友沢くんも言及する気が失せてしまったのか、ため息を最後に文句を消した。
 しばらく彼の手にされるがまま、私は膝という場を提供していると、私たちだけしかお客さんがいなかった店内に新たな来客を知らせるドアベルが鳴った。ここに付けられて長いのか、カランコロンともう老いた鳴き声だ。
 音のした方を見れば、あおいちゃんを彷彿とさせる髪色の女の子がいた。ただ、似ているのはその部分だけ。私たちがいるとわかった途端、彼女はほんのりと頬を染めて微笑んだ。野球部ではいない私よりも背が低い女の子、可愛らしい子だ。制服を着ているあたり高校生だろうか、しかしドアから歩いてくる姿はどこか年相応以上の気品がある。
「一松さんのお友達ですか?」
「一松、さん……?」
 一松さん、誰のことだろうかと思うがすぐに店員さんのことだとわかる。それまで半開きにされていた瞳がカッと開いたから。驚いた一松さんがテーブルから腰を上げ彼女の名前らしきを呼ぶと、女の子はウェーブがかった髪を揺らして返事をする。郁ちゃんというらしい。満面の笑みが愛らしさを助長して、私はふと自分の真っ黒な髪を掬った。私とは大いに違う。友沢くんに至っては野球以外に無関心な人だ、この第一線を降りてネコを撫でている。
 来客は珍しいのだと喜ぶ彼女に一松さんは素っ気なかった。いえ、素っ気ないといってもただただ読んで字の通りではない。私たちにはなかった柔らかな雰囲気、顔か、瞳か、話し方かはたまたすべてか。それはわからないけれど、彼女には確かに特別な何かがあった。目に見えないし、触れもできないのでなんとも説得力のない話だけど。
 それでも、ううん、だから、一目でわかったの。きっと一松さんにとって彼女は大切な女の子なのだと。おそらく私が友沢くんに抱くものと同じ種類のもの。微笑みながら彼に話しかける女の子と、そっぽを向きつつも決して振り払おうとはしない男の人。いつしかふたりだけの写真を眺めるだけになってしまった。
「一松さん、でしたっけ」
「え、ああ、ハイ」
「……彼女、郁ちゃんのことが大切なんですね」
 だからでしょうか、自然と口を滑りだしていたのです。彼は大口あんぐり閉まることなくそれでいて頬を染めていた。対照的なのは郁ちゃんだ。ほっぺたの色は同じだけれど、彼女はとても幸せそうに笑っている。それを見ていると、一松さんには悪いけれど自分の行動に太鼓判を押す他ない。
「や、俺は別に……ッ!」
「えへへ、そう見えますか?」郁ちゃんは乙女らしく頬に手を当てた。
「うん、一松さんは本当に郁ちゃんが好きなんだなって」
「郁、幸せです……郁も一松さんが大好きですから……」
「ふふ、そっかあ」
「……チッ」
 終いには彼を友沢くんのもとへ追い出してしまったようだった。今度はしっかりと椅子を用意して腰かけた一松さんは、友沢くんに撫でられているネコに合いの手をいれる。アンタ、もしかして友沢とかいう野球選手? そうだが。やっぱり。十四松のヤツがプロマイド持ってたな。十四松? 俺の弟。ーー奇抜な名前だな。淡白なやり取りを経て、無口な彼と天邪鬼な彼の一触即発な関係は幕を下ろした。
 安堵したところで、私の隣に椅子を引いた郁ちゃんに意識を向ける。見れば見るほどお上品な子だ。いいところの出なのだろう。郁ちゃんは私と友沢くんを見比べ、まるでその一松さんに愛の言葉を囁かれたように瞳を細く綻ばせた。
「お姉さん、友沢選手の奥さんなんですか?」
「名前でいいよ。ただ付き合ってるだけ、高校の時からだけどね」
「プロ野球選手とそんなに長く……名前さんはすごいです」
「そうかなあ」
 これまで、プロ野球選手という異色の人と交際を続けてきたことへの賞賛は沢山受けてきたけれど、高校時代から普段の友沢亮を見ていれば、ただ単に私も彼も互いが好きなだけなのだ。そして、今や好意だけではなく支えたいと思っている、それだけの話。プロの友沢選手も、友沢くんも、どんな彼のことも、私が隣で一緒に笑って、悩んで、泣いて、それで彼がひとりの人間として幸せになれるのなら、ずっと傍にいたいって私が願っている程度のこと。
 ネコの毛をなぞりながらそっと郁ちゃんに伝えると、彼女の手はいつしか頬から膝元に下りていた。真ん丸の大きな瞳は真剣味を帯びていて、興奮したように少しだけ赤みも差している。
「名前さんは、友沢選手の……いえ、友沢さんのことを真っ直ぐに見ているんですね」
「自覚したことはないけど、それならいいな」
「少なくとも、郁はそう思います」
「ありがとう」
 郁ちゃんは私から一松さんに視線を切り替えた。大人びた瞳で。
「郁、友沢さんの気持ち、ちょっとだけわかります。本当の郁を見てくれないこと、とても辛いことですから」
「郁ちゃん……」
「友沢さん、きっと名前さんのことをとっても大事にしていると思います。郁が、そうだから」
「……それって、一松さんのことかな」
「どうしてわかるんですか!?」郁ちゃんは驚いた顔で再び私を見た。
「なんでだろうねえ」
「もう! 名前さんってばあ」
 ネコが私の指に頭をすり寄せる。それを感じながら一松さんへ目を向けると、彼は未だ友沢くんと話していた。どうやら私たちの愚痴だ。勝手に話を進めたんだけど、アンタのツレ。ーーこういう時の名字、というより女は未だ俺も理解できない。あっ、それ同感だわ。なんとも失礼な会話ですね。
 きっと、プロ野球選手がこんなところにいるというのに、目の色変えるどころか人より遥かに暗い声でボソボソと話す人なんてこの人しかいないのでしょう。まるで郁ちゃんの言っていた通りだ。微笑む彼女の目には、この彼が着の身着のまま映っているのだろう。
 私はひとり物語の一から百を読み切った気分に息をついた。ネコだけがそれに気づいて不思議そうに顔を上げてきたけれど、この温かく優しい気持ちは誰に話すものでもない。人差し指を唇に当てれば、誰よりも鋭いこの子はその全容を理解したかのように丸くなった。





 後日、テンションの高い一松さんを見かけた。しかし、彼は「ウォッ、友沢選手! 友沢選手だー! すっげー! 本物! 僕十四松! サインしてください!」とビロビロに伸びた黄色パーカーの両手を広げた。こんなにも顔は似ている、もはや瓜二つだというのに性格は真逆に近い。とんだ突然変異があったものだと噛み締めながら友沢くんがサインを送ると「僕たち六つ子なんだ! 野球しようよー!」などと言われ、瓜六つの事実に言葉が失くなった。代わりに出てきたものはお笑いに不案内な私でもわかる何十年前かの驚き方だった。

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