短編

□はじめまして、世界
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◆長編ifストーリー

 キュートでプリティな橘みずきちゃんは、とてもとてもモテる。そりゃあもうファンクラブなんて当たり前のように出来ているわけで。老若男女問わず好かれるということだ。でも、私にも特別な存在がいた。それが名前。誰にでも分け与える隔てない優しさをくれる人。逆に言えば、いくらすり寄ってもそれ以上はない。だから、私は名前が欲しくなったの。
 今日もまた告白に呼び出された。もう百回は言っているだろうセリフ「ごっめーん、好きな人いるのよねえ」そして、その度に訊かれたセリフ「それは友沢くん?」そんなわけないでしょう。アイツが一番の敵、一番のライバルだった。
 名前を時々女の顔にするのは、いつだって友沢だった。彼女は女で、私も女。それでは愛する異性がいる幸せはどう背伸びをしても届けられないというけれど、私はそれを信じていなかった。同性で何が悪いの? 異性じゃなきゃいけないなんて誰が決めたの? ほうら、何も返せないくせに、偉そうに常識を語らないでよ。そんなもの、私が覆してやるんだから。
 そう信念熱く燃やしていた時だった。呼び出された教室から出ると、私たちのクラスに人がいる。それはあの友沢だった。なんでこんな時間、こんなところにいるのかしら。ヤツだけなら頭の片隅で数秒座らせて追い出すだけなのに、私の足は止めざるを得なくなったの。ーーそこに、名前もいたから。
 私はサッと息を殺した。そして、だらしなく半開きのドアから中の様子を伺う。夕日のおかげでふたりの姿が見えているけれど、電気も付けずになにをしているの。まさか、そんな。嫌な予感が渦巻いては私の鼓動を早める。気持ち悪さまでこみ上げてきた、その時だった。
「ごめんなさい。あなたとは付き合えません」
 落ち着いた、いつも通りの声で大好きな音が響いた。紛れもなく名前のものだ。私がもう百回、いやもっと言ってきたセリフは、彼女が使った途端に私の血潮が暴れ始める。止まれと願っていた心拍も立ち上がって喝采し、足をとにかく踏みならしたくなる衝動に駆られた。高揚感、そんな三文字では説明できない気持ちの昂りであった。
 私はこのままではバレてしまうと口を覆った。息も鼻息も荒々しくて動物のようだ。
「……そうか」
「うん……ごめんなさい」
「いや、名字が謝ることじゃない」
「……ありがとう」
 差し込むオレンジと静かに重なって微笑む彼女だけれど、なんとまあ妥協を許さない声色。友沢には御誂え向きじゃないのかしら。
 いたたまれなくなったのか、名前に背を向けた友沢。私は隣の教室へ身を潜め、なんとか事なきを得た。そして、わざと彼女のいる教室の扉を音立てて開けば名前は目を丸くする。今の彼女には、友沢が私に変身したように見えるほどだろう。私はその変身術の真相を知っているからか、はたまた別の話からか、笑顔を抑えきれずに彼女のもとへ歩み寄った。
「名前」
「みずき……」
 名前は頬を赤くしていた。夕日のせいかはわからない。
「あの、見てた……?」
「うん、見てた」
「やっぱり、そっかあ」
「断ったんだ」
「うん……」
 だから、私の笑顔はすぐさま枯れた。風が彼女の黒髪を揺らして綺麗に見せる。こんな表情、正直友沢にしかさせてあげられないと思っていた。私はスタートラインにすら立てていないから。喉から手が出るほど求める顔、やっぱり夕日と一緒に彼女も情緒的になっているのだと知った。
 私が男であれば良かったのに。最近はそんな極論にまで至る始末だ。どこまで努力してもどうしても、私の体は男になり得ない。性染色体をひとつ、喉から指を突っ込んで取り出したところでなれっこないの。
「みずき」
「うん?」
 名前に出会うまでは、女で良かったと思うことが多かった。むしろ、それしか無かった。ただひとつだけ、男になればできたのにと羨むことが増えた。それだけのこと。
「私ね、好きな人がいるから……断ったの」
 それが、大きすぎた。数だけで言えば一対何百何千。しかし、その一が強すぎたの。辺りひしめく女としての私を踏み潰していくほど男への思慕は増すばかり、私が当たり前の常識を覆してやるなんて虚勢はもうはち切れんと限界だった。
 彼女のためならなんだってできるのに、名前の笑顔を守るためなら。でも、男になることだけはできない。この天上天下無双、並ぶもののない随一のジレンマに私はこれからも苦しまなきゃいけないの? ああもう、どうして私じゃダメなのよ! どうして、どうしてなのよ!
「どうして……」
「……えっ」
「どうして、名前は女なのよ」
 ついに抑えのきかなくなった私は突拍子もないことを騒ぎ立ててしまう。傍から聞いていれば身も蓋もないことだけれど、名前は驚くことも馬鹿にすることもなかった。私の唐突な怪言動すら、彼女は真剣な目で黙って聞いてくれていた。
 どうして黙っているのよ。何言ってるのって止めてよ。私たち親友じゃない! ーーいや、親友になんてなりたくはなかった。本当は恋人になりたかった!
 彼女はそれでもまだ白々しく表情を見せないままだった。それとも、私が名前の表情を見ることが怖かっただけ? もう、この際どちらでもいい。私は吐き捨てる覚悟で彼女を見た。やっぱり表情はない。上等だ、私はもはや投げやりに手当たり次第の感情をぶつけるしかできなかった。
「私、名前のことが好きなの! 大好きなの! 友沢にも猪狩にも負けない、他の男にだって負けないくらい!」そうよ、私が一番なのに。
「それなのに、どうして、どうして、名前は、私は女なの……? つらいよ、苦しいよっ、名前……!」
 我慢できずに彼女にしがみつく。もうこれで名前は私の視界から消えた。彼女が私をどんな目で見ているかなど気にはならなかった。もういい、もういいから。
 私より小さな彼女の手が背中に回る。ずうっと欲しかった体温は優しくて、残酷だった。放っておいてよ! ううん、ずっと傍にいて。マウンドでは許されない不安定な感情が私を襲う。ひっくり返ってまた背を返して、そのリピートに次ぐリピートに私は吐き気を覚えた。なにより、悲しくなった。
「私も、みずきが好きだよ」
 のに、どうしてなの。小悪魔なんて呼ばれてきたけれど、こっちの方がよっぽど悪魔だと思った。好きとは非情で曖昧な言葉。私を一喜一憂させることなんて朝飯前だから、グッとこらえる。何も言わなかった。彼女の胸に埋めた顔から名前の香りを思い切り吸い込んで、それだけが暴れる私を諭してくれる材料。私は大人しく言葉を待った、歯を食いしばって。
 名前の腕に力がこもった、ような気がした。都合がいいだけかどうかは見当もつかない。そんな判断力はもうない。でも、私の身体は確かに名前一色に包まれたの。
「友沢くんより、誰よりも……みずきが好き。女の子だけど、そんなこと考えられないくらい、好きなの」
 交わることを許されないふたりがひとつの身体になるのではないか。そんな感覚に陥りそうなほど、強く抱きしめられた。そして、私の胸のうちを全て覗かれているようなテレパシー。彼女が呟いたことは確かに私の中にあった。一番大きな領域をもって。
 一緒、なの? 名前も私と、同じ気持ちなの? おそるおそる尋ねれば、彼女はゆっくりとこの上なく綺麗に、そして安らかに微笑んだ。それはまるで静かに夜空を照らす月のよう。まだ出るには早い時間なのに、その月は夕焼け色の幻想的な姿にたった今変わった。赤みの差した彼女の髪、頬、瞳、なにもかもが私を見て赤く染まっていた。黒く吸い込まれそうな目に映る私も、同じ色をしていた。きっと、夕日のせいだ。そう思うことで、私はこの有象無象で掌中の珠めいた感情を縁取ることしかできない。ーーそれ以外は、する気も起きなかった。
 名前に引き寄せられる私、そして私に引き寄せられる名前、磁石でも可能とし得ない、音もなく覆った現実はこの先も足跡残さずして続いていく。たった今、この時からなにもかもが少し変わったんだ。触れた彼女の頬は初めてのもの。手のひらも額も、私の知らない、ううん、これから知っていく愛しさの形なの。

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