短編

□君と見たい空はここから
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 初めてグラウンドに入った。汗や土の匂い、遠慮なく吹き散らす風、その砂塵たちが目に入ってしまいそうで思わずギュッと閉じる。今日は私が野球部のマネージャーとしてデビューする日だ。野球のことなんてからっきしだけれど、私は早川選手が大好き。彼女へのお慕いと彼女のような人を応援したい、その気持ちだけは本物だと自負してここに立っているというわけだ。
 はりきりすぎただろうか。早すぎただろうか。再び開いた目から見たそこは、まだ人影ひとつないグラウンド。いいや、いいんだ。それだけ気合いは十二分にあるということ。私は大きく背伸びをしてたったひとりの静けさを堪能していた。ああ、野球部の人はこの神聖なグラウンド様に頭を下げる日課があったのだっけか。同じくして頭も下げた。
 それがどうだろう。金網のドアがギギと音を立てるのだから、私はすぐさま顔を上げる。身体が妙に熱い。何事もなかったようにと暗示をかけ、音のした方を振り返った。そこには緑色の髪を靡かせながらバットケースを背負った男の人がいて。質量のある肩幅にここからでもわかる固そうな胸板。この通り、恵まれた体格の持ち主だった。自分にはないその逞しさに私は息をのむ他ない。さらには凛としていて整った目鼻立ちのおまけつき、きっと彼は四番を担うほどのバッターになり、さらにはファンも後を絶たないのだろう。雲の上の物語だけれど、なんとその登場人物には私もいる。私はこれから主役級の人を支える立場になるんだ。そう思うと胸は期待やら不安やら、はたまた緊張やらでいっぱいになる。
 今しがた入ってきた彼は私と同じく一年生かどうかはわからないけれど、少なくとも野球部の人であることは確か。それなら、今後私も関わるに違いない。ラッキーだ、知り合いは多いに越したことはない。今のうちに彼と接点を持っておこうと下心を授かった私は満面の微笑みを作り、彼へと近づいた。
「あの」
「なんだ」
「野球部の方、ですよね」
「ああ」
「私、今日からマネージャーになる一年の名字名前と申します!」
「そうか」
 それが、私の空想物語とは大きくかけ離れていた。九十度腰を折った私に、彼は一瞥すらくれてやったのか定かではないほどにすんなりと会話の終止符を打ったのだ。私といえば、多くを語ろうとしたわけではないものの意外や意外で呆気にとられてしまう。
 下げていた頭を持ち上げ彼を見れば、特に意地悪をしましたと茶化す気もなさそうだ。肩にかけたケースからバットを取り出すと、無言で素振りを始めた。もしもここにボールがあるのならば場外、それ以外のものがあるのならばタダでは済まない鋭い空音を響かせる彼は、まるでグラウンド一番乗りの努力家。私など一瞬で神聖なその球場から放り出されたようだった。
 私は立ち尽くして彼を見ていた。スイングだけではない鋭い眼差しは、私がいくら熱視線を送ろうとも決して脇目を与えようとはせず野球の虫になっている。後ろに束ねた髪が遅れながら彼へと尾を引いていて、しかし、鬼教官であるのか彼は待とうとせずまた緑の線が跳ねた。
 かっこいい、素直な気持ちだ。初めて見たときからそう思ってはいたけれど、いざ野球選手に姿を変えた彼は、浅はかな私を遥か遠くに引き離した。百聞は一見にしかず。日本人の誰もが知っている言葉、私もしたり顔で使ったことがあったけれど、そのような頭を抱えたくなるこっ恥ずかしい出来事は霞んで灰となり吹かれ去った。
「……まだ用があるのか」
「えっ」
「いつまでもそこにいられては困る」
 が、彼にとっては私がここでホクホクと胸を震わせているのは迷惑らしい。さっきまでは求めても頂けなかった鋭い瞳が、こうも簡単に投げられたのだから驚きです。鋭いだけではなく鬱陶しさも混ざった、歪み眉根でしたが。
 マネージャーが選手の邪魔をしては大変。慌てて私は彼から数歩後ずさる。やっとかとため息までついた彼は、私を意識の範疇から捨て、再び素振りの音とふたりきりで向き合った。鈍りもしない豪快で気持ちのいいバット。見ているだけで怒られてしまったくせに、あまりにも眩いその光景がすごいだろうと私を誘って来るんだ。
 彼に伝えたい。すごいんだって、かっこいいんだって。一心不乱にリズムを崩さずしてバットを振る彼、あなたみたいな人を私は応援したいと思っているんだよって。きっと、彼はクールだから私が声を大にしてなにかを伝えようとしても、その半分も受け取ってもらえないに違いない。でも、でもね、私だって今日からとはいえマネージャー。これくらいはしてもバチは当たらないよね。誰かが首を振っても応じる気などない腹を膨らませた。
「あの!」またもあの顔が私を見る。
「頑張ってください、応援していますから!」
 彼は私に背を向け、なにも返してはくれなかった。そう思ったのだけれど、そんなことはなかったの。今度こそあの不機嫌そうな目でも興味なさそうな目でもない、驚いたような顔をしてみせたから。彼と出会って経った時間といえばものの何分か、それでもわかる。なんとレアな表情なんだろう。そんな顔をさせることに成功した私はイタズラにお釣りが返ってきた気分だ。
 隠しきれない笑みが普段より幾分も口を広げてしまうから、乗っかってしまえとばかりに私は大きく手を振った。これで会心の笑顔だ。彼はもちろん振り返すなどはしてくれない。だが、クールに片手のひらを見せてくれて。それは彼なりの挨拶なのだと都合よく思うことにした。

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