短編

□同じ夢を見たいと願う
1ページ/1ページ

 栄光学院大学の野球部はハードだ。それもそのはず、この大学は全国制覇を狙っているのだから。あの帝王大学や西強大学と肩を並べると言えば、その強さは理解できるだろうか。私はそこでマネージャー、とはいっても久遠ヒカルくんのために始めたようなもので、なんとも不埒なマネージャーであった。ああ、仕事は真面目にやっていますよ。やっていますとも。
 そんな久遠くんが珍しく本を探したいと言ってきたのだ。どういう風の吹き回しかと思ったけれど、なにやら講義関係らしい。彼にも野球以外に使う脳があったのだと失礼ながら当たり前のことを考え、さらには私も本屋で勉強したいことがあると用を仕立て上げてついてきた。ちなみに、彼にとって私はただのチームメイト。嘘も方便ということです。
 大学近くの老舗の本屋、近辺を何回も往復してきたくせに私もおそらく彼も来たことがないだろう。ほこりが点々としたドアを開けると、どこかから拾ってきたのかと思うようなボロボロのソファーに店主のおじいさんがどっかりと気だるそうに座っている。しかし、老木のような外見とは相反して、出版日直後の新作がインクの香りを漂わせて威張りちらすタイムリーなお店らしい。週間パワフルスポーツの表紙には、今年注目を集める高校の名前が縁取り文字で並んでいる。
 おじいさんは私と久遠くんに顔を向けると、和紙をくしゃくしゃにするように笑った。髭と同じいろの眉とシワがくっつき、まるで目は見えないけれど、流るる小川のように安らかな表情をしていることはわかる。「ゆっくり読んでおいき」牛歩で漂ってきたしわくちゃな声、そして木の枝みたいな腕を上げたものだから、関所の通行手形でも渡された気分だ。そこには立ち読みと書かれてでもいるのだろう。お財布に信頼のない私としては、神様仏様おじい様が与えたもうたもの。ありがたく頂戴した。おそらく彼も一緒でしょう。
「久遠くん、参考本だよね。それならあっちにあるんじゃないかな」
「そうだね。行ってみようか」
 壁に貼られた画鋲が取れかけているフロアマップを頼りに指差した方へ向かう。すると、シワひとつなく、おそらく指紋もほぼないであろう本を手に取っている先客がいた。それもふたりだ。
 店の雰囲気といい、てっきり私たちだけだと思っていたのだから我が物顔で闊歩していたのが恥ずかしい。声の音量も歩幅も大人しくしたところで、いそいそと男女の背後を過ぎようとした。が、しかし、久遠くんはふたりの後ろで立ち止まる。
「その本……」
 彼の呟きにふたりが振り返った。優しそうなふたり、それが第一印象だ。色素の薄い男の人とメガネをかけた女の人。私はふたりに釘付けだったけれど、久遠くんは男の人が持つ本に釘付けだった。ーー本が少しだけ羨ましいと思ってしまったことは内緒だ。
 男の人が彼の視線に気づいて穏やかに微笑む。その笑顔は隣の彼女にも伝染した。メガネの奥の瞳がそっと細くなり、唇が弧を描く。ふたりの表情はよく似ていて、私はますます見惚れてしまうのだ。男の人は本を閉じた。
「これをお探しなのかな」
「ええ、そうなんですけど……」
「そっか。それじゃあどうぞ」
「えっ、いいんですか?」
「うん。僕は一度読んだから」
 その本、面白い目線で書いてあるよと久遠くんに手渡す男性。心地よい彼の柔らかさの前に、あの久遠くんもタジタジのようだ。いつもは帝王大学にいるらしい一歳年上の友沢さんを倒すために必死だけれど、珍しい姿が見れたもの。
 私はふと、閑やかな男性から目を移す。そこにはメガネの女性がいる。この人もきっと私たちより年上だろう。大人という言葉をそのまま姿にした彼女の様は、見ていると安寧を感じてしまう。
 ジッと見続けていた私の熱視線に気づいた彼女がこちらを向いても、私には波風ひとつ立たなかった。彼女ならきっと、天下太平を謳いたくなるような微笑みを見せてくれると信じていたから。
「ふふ、こんにちは」ほら、やっぱり。
「こんにちは。あの、あなたは……」
「付き添いです。本の虫なの、この人」
 綺麗にクスクスと笑う彼女は、その見た目以上に美しい人なのだと一目で取れた。久遠くんもきっと彼に対して同じことを考えているに違いない。
 それくらいに、ふたりはこの本屋さんのような、春風揺れる木漏れ日がよく似合う人たちなのだと思ったの。心なしか、辺りを埋める本たちまで暖色づきそうだった。
 訊けば、ふたりはこの本屋さんの常連さんだという。こんな和やかな人がよく利用しているのならばと、この寂れた本屋さんが知る人ぞ知るブックスポットに昇格した。なんとも都合のいい話。彼、神城綾人さんは生粋の本好きで、そのお隣さん、橋田ひこさんはそれに付き合っているんだって。ふたりの間には長い時を重ねた目には見えないはずの糸がはっきりと見えた。事実、神城さんがひこさんへ注ぐ眼差しが何にも代えがたい温かさを携えていることがある。
 私は久遠くんを見上げる。物腰柔らかげな大人の男性である神城さんに憧憬を送る彼とはちょうど十センチの差しかないくせに、それはとても顕著で果てしないもののように感じた。もしも、神城さんとひこさんのような関係になれたのなら。頭では到底追いつけない世界に私はひとり沸した。
「……名前ちゃん?」
「あ、はい!」
「ううん、顔が赤いから大丈夫かなあと」
 また、それを見ていた人もいた。ひこさんだ。私はなんともいたたまれない心地になる。
 そのうえ、不幸なことにひこさんがくれた労わりを久遠くんが聞いていたというのだ。彼は神城さんから私に振り返り眉を下げた。
「名字さん、体調悪いの? 無理して来なくても大丈夫だったのに」
「そんなことないよ、久遠くんと出かけられるんだもん!」思わず語気を強めてしまう。
「そ、そう? 名字さんは勉強熱心だね」
 が、見事に空振りだ。そりゃあ私は彼のような変化球が打てるとは思っていないけれど、これはいかがなものでしょうか。顔色ひとつ変えずして笑う彼はなんとも難攻不落。私は肩を竦めた。
 好感触を得られない彼の代わりに、ひこさんと神城さんは私の気持ちを透かしたようだ。ーー別に、隠していると呼べるものではないかもしれないけれど、彼らに隠しごとなど一生かかってもできなさそう。私は肯定の証にふたりへアイコンタクトを送った。
「……ご覧の通りです」
「大変そうだね、名前ちゃんは」
「そうですね。私も高校生の頃を思い出します」
「ふふ、僕はそんなに鈍かったかな?」
「綾人さんは本ばかりでしたから」
「そっかあ、ひこちゃんは僕のことをよく見ていることには気づいていたけどなあ」
「昔の話はやめましょう!」
 すると、さっきまで大人だと思っていたひこさんが女の子らしく頬を染めて反論するのだから、私は自分の行動が正しかったと太鼓判を押した。綺麗だと思っていた彼女は今ここで可愛らしいという形容詞も付け足されたんだ。
 相変わらず、久遠くんはなにもわかっていない。三人で話を進めていることに不服を感じたのか、掌にある参考書を捲り始めるほどだ。私たちの主語なき会話の中心は彼だというのに、どこまでも鈍感な人でしょう。私はお手上げだとばかりに目の前のカップルへ集中する。神城さんも一時前は頬を染めていたひこさんも微笑で私にエールを送ってくれた。
 なんと言いますか、見れば見るほどお似合いで心落ち着く組み合わせである。私のようなスポーツに費やす泥や汗の悪臭もない彼らはこの上なく清らかで、辺りの空気も浄化されそうだ。
 だからか、どうか。それは定かではないが、その清廉作用の手を広げ、曇り空漂う私に天気を、いや、転機を連れてきたのは彼女だった。
「名前ちゃん」ひこさんだ。
「はい」
「頑張って……ではないかな、諦めないで、ね」
 突然の申し出だった。これには久遠くんの顔を上げさせるのにも効果はテキメンで、私よりもひこさんの方が久遠くんの取り扱いが上手ではないのかと思う。一方の私も間抜け面でぼんやりしている他ないのだから、ひこさんは何冊の取扱説明書を所持しているのかが気になる。
 婉曲的にヒントをくれるひこさんを神城さんは慣れっこなのか表情を変えない。
「名前ちゃんのいいところ、たくさんあるんだから」
「ひこちゃんの言う通りだよ。ヒカルくんもそれはよくわかっているんじゃないかな」
 さらに、神城さんは本を片手に首を傾げる久遠くんに投げかけたときた。
 彼にとっての暗号をふたりでやりとりするこのカップルは、言わずもがな私の話題だ。ガードレールを超えた車道スレスレを歩く会話に私はひとり震えている。これじゃあ久遠くんに私が好きだと伝えているようなものじゃないかって。
「……すみません、なんの話ですか?」
「そうだなあ、いづれわかると思うよ」
「知っているのだから、あとは気づくだけですもの」
 けれど、彼の頭はいつもとあるスポーツが占領している。今は珍しくペンと消しゴムの植民地なのだけどね。それでもなお、私に授けてくれる隙間など風の通り道もないのだから、杞憂に終わってしまった。
 神城さんとひこさんは微笑ましそうにしているけれど、この鈍感な人が私の想いに気づいてくれる時などこの先待てども待てども来ないのではないかな。私は重い頭を垂らした。

 おふたりと別れ、帰路についたことだ。私は久遠くんが大切そうに抱える本を眺めていた。いいだろうと私に舌を出すコイツの立ち位置は、確かに私にとってなによりも誰よりも欲しいと願う場所だ。強奪できるものなら盗んでやりたい。なんとも憎らしいライバルである。しかし、この本は不思議な糸を引き、彼と彼女と結びつけてくれた。
 メガネの先で保母さんが子供に向けるような笑顔のひこさん、そしてひこさんに負けじと私たちを安心させて溶かしてしまった神城さん。穏やかなふたりだった、本当に。この世のしあわせを具現化させるのならば、私は真っ先に彼らを縁取るでしょう。
「神城さんとひこさん、素敵な人だったね」
「そうだね」
 素敵、なんて表現したけれど、それではどうも足りない。街の喧騒の中、ただ一箇所だけ見つけた夕凪のようだった。風もなく、音もない、そこにあるのはただ私の手と同じくらいの温もり。熱くはないし、冷たくもない。ずっと握っていたくなる水平線のその先まで伸びる永遠が確かにあった。
 こうした曖昧で、でも間違いなく存在するものを世間では愛だなんて呼ぶのかもしれない。珍しいことを考えて私は破顔した。湧き上がるようにその愛とやらのおこぼれをいただいたからだ。これは他人にも作用するらしい。
「名字さん」が、私はすぐさま表情を戻した。
「うん?」
「さっき、神城さんと橋田さんに言われたことを考えていたんだけど」
「うん」
「名字さんには、いいところがたくさんあるね」
「そうかな」
「そうだよ」
「そっか、ありがとう」
「うん、だから」
「なに?」
「今日は、付き合ってくれてありがとう」
 彼が笑う。神城さんやひこさんとはまた味の異なる、私が大好きな笑顔だった。ふたりがくれた温かさの上からさらなるそれが重なる。私は綺麗な微笑みに涙すら流れそうになり、しかしこれではと強く堪えた。久遠くんの前だ。
 同じ表情で返せば、彼との距離がほんの少しだけ縮んだような気がする。やっぱり、これは本人たちだけじゃない。他の人にだってしあわせを分けてくれるのだとふたりを思い浮かべたのだ。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ