短編

□月が泣いた夜の帳
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※長編ifストーリー
寝取られもの、甘さは一切ありません。閲覧は自己責任でどうぞ。



 ここ何日か、名字には寂しい思いをさせている。その自覚は間違いなくあった。だから、たまにはと彼女に似合う銀の真珠、渡せば彼女の首元で揺れるだろういわば免罪符を服に忍ばせ、その小さなアパートを訪れたのだ。古い階段を登っていきながら、俺は甘い雨の香りを喫していた。生憎の天気だった。踏みしめた鉄が雨音に混ざって不埒に鳴る。白い塗装が剥げかけた手摺は野球部の監督に植えつけられた白髪を彷彿とさせるが、お節介にもほどがあるだろうとその様を強引に掻き消した。今は彼女のことだと。
 白い扉を静かに叩く。小気味のいい音などせずに、ご老体の嗄れ声さながらの呻きが聞こえた。名字は質樸としたものが似合う。飾り気のないそれを拾い上げて頭を撫でてやる尖りのない女だった。彼女にかかれば羽根を広げることもできぬ蝶番が外れかかった戸であろうと、お菓子の家の扉にでも変えてしまうのだろう。雨の香りは未だ安らぐ甘味を携えていた。開いた先にいた女は、紛れもなくその舌を踊らせる露の原因である。
「友沢くん」
「久しぶりだな」
「こんな雨の中、どうしたの?」
「いや、名字の顔が見たくなったんだ」
「……そっか」
 名字は柔く微笑むと俺を招いた。小さな背中が俺の先を歩く。目に見えるとなんとやらか、久しく対面していない黒い瞳は無性に艶々しく光っていたような気がする。彼女はここまで色気を漂わせていたか。最後に足を運んだ時以来なにも変わらない室内、そのくせ住民の方はえらく俺を誘惑した、かどうかは定かではないが、俺は彼女に手を伸ばす。
 すっぽりと腕に抱かれた名字、その表情は外から聞こえる雨音だけが知るものだったが、この上なく満ち足りた体温や柔らかさに安堵しているのは俺の方だった。彼女のことなどすべて棚に上げて抱きしめた。しばらく忘れていたからかと焦りながら彼女に口を寄せる。
 しかし、彼女は乗ってなどいなかった。狭い壁と床に囲まれた部屋でお隣さんだか誰だかに気を遣いながら、そっと見上げる彼女の瞳は吸い込まれるように黒黒しかった。煌めくその深淵には、お預けを食らった間抜けな俺が聢と映っている。愛する女の前であることを思い出し、意気軒昂に漢を見せひけらかす。すぐさま瞳の輝きが宿った。
 下がり眉の名字と向き合うのは立派に彼女からお許しを頂かんとするみっともない男、それでもいい、ただ彼女をこの手に入れたいと願っていたのだから。ひけらかしていたのは漢の中でも汚らわしい尻尾だったということだ。だが、相入れぬ願いだと黒い瞳が物鬱げに逃げた。
「……ごめんなさい、あの、話すことがあるの」
 彼女の周りに障壁が置かれた。腕一本分しかない距離には見た目以上の余地があった。なにも浮遊していない、ただの障害としての空間、単位にしておよそメートルそこらだが果てしなくも一抹の長さ。それまでは俺を歓迎していた見慣れた名字の部屋すら、敵のお出ましが如く目を尖らせたようだ。なんとも不穏で心苦しい空気に逃げ出したいのはこちらの方だと尻尾を巻こうか。都合よく尻を丸めようとする俺を、彼女は許さない。
 潤む瞳を持ち上げると惚れた弱みが顔を出す。秀でて目を惹くような人形ではないはずの彼女が、俺に生唾を飲ませるのだ。このような仕草が実に俺を掻き立てるのだ。俗語で言えば、ずるい。何様かと非難が飛ぶかもしれないが彼女はずるい、本当に。
「なんだ」
「友沢くん、私と」
 下を向いた彼女の頂上が見える。艶やかな黒髪が一点から様々な道伝いに白頬へと垂れていた。呑気なことを考えていた。
「……別れて、ほしいの」
 俺は何を言われたのか理解できない。いや、本当に理解できないでいられたなら、どれほど良かったのか。鈍器で殴られたようとはよく言ったもの。殴られた方が幾分マシだ。名字は何を口にしているんだ? 別れる? 別れるとはなんだ? 名字との仲を消してしまえということなのか? 俺は頭より先に彼女へと身体がのめる。驚いた彼女の心配などできる頭はどこにも残っていなかった。
 名字を掻き抱いた。それは、肉食動物が餌を捕まえるのに似ていた。捕食される方の意図など関係ないのだ。自分が欲しいと願うから捕まえるのだ。痛かろうがなんだろうが、知ったことではない。
「友沢くん、お願い」
「なぜだ」
「お願い。ねえ、お願い」
「なぜだと聞いている!」
「……友沢くんじゃ、ダメなの」
「どういうことだ」
「友沢くんよりも、好きな人ができたの!」
「…………」
 会心の一言だった。俺の自尊心にかられた良識から背く行動を彼女は見事に成敗した。善の道を突き進む弁護士のようなその様に俺はもはや返す言葉もなく、ただただ絶望した。なぜだ、どうして俺がいながら、他の男に恋をした? 名字はそんなにも移り気の激しい女だったのか? 何を言っている、名字の優しさに甘えてきたのは俺自身じゃないか。いつ愛想を尽かされてもおかしくない状態だった。
 名字が俺の腕から抜け出す。それほどまでに俺はすでに力を入れることができなくなっていたのだ。彼女は俺に黒く鋭い視線を投げかける。無理もないのだ、彼女にはもう俺が映っていないのだから。しかし、受け入れることなどできるか、できるはずがない。彼女は俺のものだと信じてやまなかった。俺のもの、だ。
「ごめんなさい。でも、嘘はつきたくないの」
「…………」
「だから……さようなら」
 隠し持っていた彼女へのプレゼントが音を立てて壊れたような気がした。その途端に俺はなにも考えられなくなった。なにも口に出せなくなった。子供騙しの優しさ、下げた眉は最後まで彼女が彼女であることを示しているのだ。





 ゆっくりとした動作で部屋から出て行く友沢くんの後ろ姿を見送った。ーー彼には悪いことをしてしまった。きっとこの先、永遠に恨まれてもしかたがない。しかし、そう感傷に浸ってもいられないのには理由がある。携帯電話を取り出した。耳に当てるはこれから私の一番になりうる人。彼はとても不幸な人だった。不幸で、悲しくて、誰からも手を差し伸べられない人だった。彼を救いたいと願った私に与えられたのは、永遠を誓うこと。
 彼の声が聞こえてくる。私は彼に話したの、あなたを選ぶということ。それが私の真実。あなたのために、私ができる最大のこと。これ以上はもうできないのだから。
「名前」
「なあに?」
「会いたい、今すぐ」
「……うん、わかった」
 今まで悲しい日々を送ってきたあなたに、ねえ、知ってほしいの。もっと素敵な未来を。だから、私を頼って。
 軽装のまま家を出る。もう友沢くんは影も形もない。私はすぐさま彼を思い出し、夜の道を駆けた。あなたのもとへ。寒くはない、風も強くはない。ただ、雲ひとつない夜空からポトリと一滴だけ雫が落ちてきた。そういえば、さっきまで雨が降っていたのだっけ。もうあがったみたいだけど。
 空はただひとつだけ涙を零すと、残りは暗く微笑むだけだった。濃紺の闇夜に私と彼の門出を祝福されているような気さえした。だから、早く早くと走った。息を切らしてたどり着く頃には、彼が私を強く抱きしめた。抱きしめて、寂しそうな手が私に触れた。もう大丈夫、あなたの手も、なにもかも温めてあげるから。私はそっと目を閉じて彼に委ねたの。彼は、口角を上げていた。
 ただ私との肉体関係のために、不幸な作り話をしたとは思いもせずに。

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