短編

□祖国は美しいと言った
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 僕は彼女が好きだ。なぜなら、彼女は野球のような人だから。なに、そのままの意味さ。彼女は野球のように、追っても追っても背中が近づかないんだ。けれど、いつだって僕の側にいる不思議な存在なんだ。別に、幼馴染ではない。特別僕のことを理解しているわけでもない。彼女は野球が好きな女の子というだけ。
 僕宛ての声援は多い。野球部ではトップなんちゃらに入る自信もある。もちろん、女の子からの声援は嬉しいんだ。ありがたいものだとわかっている。しかし、僕は声もあげずにグラウンドを眺めている彼女を見ていた。彼女の居場所は一塁側スタンド。マウンドから少々距離のあるそこは人影が多いとは言えない。そんな中、ミステリアスな彼女はいた。毎日毎日いた。長い前髪で顔を隠しながら練習の最初から最後まで。時には傘を差していた。僕らはずぶ濡れだというのに、そう思ったこともあったっけかな。とにかく、決して近づかない。離れもしない。そんな距離に彼女はいたんだ。ーーだから、僕は恋をした。
 今日も彼女はあの場所に、ほら、いる。表情の見えない分厚い前髪を垂れ下げて。その心地に安心しながらも、なぜだか近づきたくなったんだ。おかしな話だよね、矛盾しているよね。でも誰も僕を叱りはしない。だから、彼女のもとへ歩んでいったんだ。
「あの」彼女は前髪を揺らした。
「……はい」
 審判団が集まるほど仄かに開いた小さな口から恥ずかしげに顔を見せたのは、これまた消え入るような声だった。初めて聞いた、僕は堪えきれずに震え上がる腹へムチを打つ。こうして己を律することだけが今の僕に残された技。
「いつも練習、見てますよね」
「……はい」彼女は躊躇った。
「野球、お好きなんですか?」
「はい」だが、これは即答だった。
「そうですか。……どんなところがお好きなんですか?」
「全部です」
 ミステリアス、まさに不可思議な神秘を閉じ込めた人だと思った。これ以外の形容詞が見つからないほど。この人は陳腐なセリフに色をつける天才なんだ。野球の全てが好きだなんて僕だって言える。しかし、彼女が表情を覗かせない分、その全てが文字通り詰まっていた。僕は、改めて彼女に恋をし直した。
 好きになってしまえば簡単で、彼女に僕を見て欲しいと願った。しかし、どんなに見事な直球、変化球、コントロールを見せたところで、彼女から野球の名前が消えることはない。僕は檻の中のライオンみたいだった。目の前に彼女の血肉があるのに、貪ることは許されていないんだ。
 僕は彼女の名前を聞いた。彼女は教えてくれたが、僕の名前を聞き返しては来なかった。名字さん、そう呼べば一歩だけ近づいた気がする。しかし、彼女は一歩だけ離れた。ね、わかったでしょう。彼女は野球のような人なんだ。
「鈴本」
「なにかな」
「お前、最近あの子のことよく見ているなあ」
「あの子って、名字さん?」
「えっ、名前まで知っているのか?」
「そりゃあ、好きな人だからね」
「へえ……って、マジかよ!」
「うん、本当だよ」
「お前、ああいうのがタイプなのかあ。なんかこう、教室の隅にいそうなのが」
「教室の隅かあ……僕はそう思わないけどね」
 周りは気づいていないけれど、彼女は教室の隅なんかじゃない。僕の心のど真ん中にいる存在だ。いつだって僕の足を野球へとズレなく向かいあわせるプロなんだ。彼女のことを思えば、早く練習がしたいと身体が疼いてくる。そして、彼女に僕の投球を見て欲しくなる。この気持ちを恋と呼ばずしてなんと呼ぶのだろう? 甘い感傷に胸を押さえながら午後三時半、部活動が始まる時間を今か今かと待ち望むのさ。
 その時間を針が指差すと僕は一目散に駆け出す。行き先は言わなくてもわかるよね。僕の一番好きな場所、グラウンド。中でもほんの数センチだけ、一番高い場所、マウンドが好きなんだ。ここからの眺めは人より良い。応援してくれる女の子たちも、なによりは左には前髪で蓋をした彼女がいる。名字さん、今日も彼女の目には僕が映る。ありのままの姿が。きっと、僕に声援をくれる女の子たちとは見える世界が違うのだろう。
 だから、好きなんだ。君が。どこかの遠い人の言葉にようく似た、野球の姿にようく似た君が。僕は彼女からバッターボックスに目を移して思う。僕は君を好きだけれど、君が僕に好きになれと言うのであれば、喜んで君を捨てる。でもね、そうなる時まで君を好きでいたいんだ。不思議な感情? ううん、これは恋だよ。歴とした恋さ。

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