短編

□誰しも白線を超えていく
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 私の背と同じくらいの太鼓がドンドンと鳴っていた。元気いっぱいで、これを聞いた人も元気になれると思った。初めて野球をするところに来たんだ。パパとママと、私で。メガネをかけた優しいパパとはぜんぜん違う大きい男の人たちが木でできた重そうな棒を簡単にぶんぶん振ってた。でも、振らない人もいた。投げる人と捕る人だ。みんな、あの白いボールが大好きなんだって思った。
 私は知らないおじちゃんに声をかけられた。おじちゃんは、赤い服を着ていた。ちなみに、パパもママも赤い服を着ていた。
「お嬢ちゃん、パワフルズの応援かい?」
「パワフルズ?」
「おう、今日はパワフルズとオリックスの試合だからなあ」
「オリックス?」
「ん? なにも知らねえんだなあ」
 おじちゃんは私にため息をつくと、パパとママに声をかけた。パワフルズとかオリックスとか、よくわからない言葉が飛んでいる。パパも、いつもは「あらあら名前、学校終わったの? ランドセル置いてらっしゃい」とお菓子を作ってくれるママも、目がキラキラしていた。私の頭の上では福家とか館西とかむずかしい言葉もいっぱいだ。おじちゃんもげらげら笑っている。パパもママも、むずかしいものを聞いてうなずいているんだから、すごいなって思った。
「ヘェ、パワフルズ繋がりで出会ったのか! それじゃあこの嬢ちゃんも相当なパワフルっ子になりそうだなあ」
「ウフフ、そうだといいんですけどねえ」
「あの超有名パワフルズファンのエリリンくらいになるんじゃねえか?」
「エリリンさんほどパワフルズファンになってくれたらパパも鼻が高いなあ」
「おっしゃ、俺がパワフルズの良さを教えてやるかあ! 嬢ちゃん、着いてきな!」
 私がわからないものは日本語でだってわからない。けれど、おじちゃんは私の腕を引いて席を立たせた。そして、パパとママから離れる。ちょっぴり不安だったけれど、おじちゃんの手に引かれながら見たふたりの顔はとても嬉しそうだったし、おじちゃんもキラキラしていたから、私の小さな胸のモヤモヤはあっという間に消えたんだ。
 おじちゃんは私と階段を降りる。右も左も赤色の服を着た人がいっぱいいた。服だけじゃない、たくさんの人が持つ棒のような、筒のような何かも赤かった。中にはおじちゃんとパパ、ママが話していた呪文も聞こえてくる。「福家ー! パワフルズの魂見せろやー!」おじちゃんも私の腕を掴みながら、降りる先へと叫んでいた。周りの人もだ。耳がびっくりするような声だけど、不思議なことに嫌だとは思わなかった。
 やがて、おじちゃんが私に振り返る。目がギラギラしていて、楽しいとか嬉しい気持ちで溢れていることは口で言わなくてもわかる。今、学校でやっている国語のおはなしでもあったし、先生も授業で言ってた。目がギラギラしているのは待ちきれない気持ちなんだって。離された太い手は続いてパパもママもずっと見ていた方向を指差す。そこにはさっきまで公園の原っぱみたいだと思っていた野球のグラウンドがあった。振り返ると私のいた場所は遠く点のように小さくなっている。公園の原っぱより何倍も広い草原があって、その向こうには人がいて。野球をやる人だってすぐにわかった。その人も、パパとママと見ていた時より遥かに大きかった。
「見えるか、嬢ちゃん。あの赤いのがミスターパワフルズ、福家花男だぜ!」
「福家花男? ミスターパワフルズってなあに?」
「パワフルズを代表する男だ! ほうら、あっちの方まで飛ばすんだぜ」おじちゃんはまた別の方を指差した。遠く離れた真っ赤なところだ。
「パワフルズって? 飛ばすってなにを?」
「かーっ、そういやなんにも知らねえんだったなあ! よっしゃ、俺が教えてやる!」
 おじちゃんは頭を抱えながらも、パワフルズだとか野球のことを教えてくれた。クラスの先生とは違うけれど、振ったり投げたり身振り手振りがたくさんつまったおじちゃんの話は聞いていて楽しい。パワフルズは野球のチームの名前、福家花男さんはパワフルズの選手の名前なんだって。野球はボールをバットで打つゲームなんだ。点がたくさん入った方の勝ちだよ。
 おじちゃんに教えてもらった後は、これでもかと世界が違って見えた。ピッチャーの人がとっても上手だった。だって、バッターの人がボールを前に飛ばせないんだもん。たまに私やおじちゃんがいる方に飛んでくるボールはファウルボールっていって、打ったうちに入らないの。私は上手なピッチャーの人ばっかり見てた。すごい人って、私のクラスにもいるけど、その人より全然すごかった。おじちゃんは悔しそうだった。「まあた三振かよ、やっぱり神童はすげえなあ」私はおじちゃんに聞いた。あの人のこと。
「アイツは神童裕二郎ってんだ。オリックスのエースだぜ」
「オリックスってなあに?」
「ああ、パワフルズみてえなもんだ」
「じゃあエースは?」
「チームで一番投げるのが上手いヤツのことだな」私は手を打った。
「やっぱり! あの人のことをすごいなって思ってたんだ」
「ウオぅ、嬢ちゃんはオリックスに興味をもっちまったかあ」
「うん! 私、オリックス好き!」
 おじちゃんは「残念だなあ」と言いながらも嬉しそうだった。私の頭をガシガシと撫でて、肩車をしてくれた。神童裕二郎さんがよく見えた。
 神童さんはすごかった。なにがすごいって、ううん、なんだろう。まだよくわからないけど、とにかくすごいんだ。神童さんが投げるボールにはみんな当たらない。みんなみんな、ストライクって黒い服と仮面をつけた人に怒られているんだ。そして、神童さんはその度に大きな手をギュッと握って喜んでいる。逆に、私の周りの赤い人たちはため息を零す。おじちゃんもそうだ。だからね、神童さんはたくさんの人を動かせることがわかったんだ。
 ジッと見ていたら、いつしか私も投げてみたいって思った。おじちゃんの肩の上で、私は神童さんになりたいって。
「おじちゃん!」
「おぅ!? どうした?」
「パパとママのところに帰る!」
「な、なんだい! 俺は人攫いと違うぞ!」
 おじちゃんは私を乗せたまま、あわてて階段を駆け上る。神童さんが背中に行ってしまって、見えなくなるから私は首を捻る。でも、おじちゃんに危ないって言われてやめた。おじちゃんは急いでた。私はピョンピョン跳ね上がるおじちゃんの肩に掴まって、パパとママを探すことにした。
 国語の文章で勉強した。胸がドキドキすること、目がカラカラすること、いても立ってもいられなくなること、これは全部、嬉しかったり悲しかったり、心がたくさん動いてる時に起こるんだって。私は今、悲しくない。だからきっと嬉しいんだ。足をパタパタ動かしたら、またおじちゃんに怒られちゃった。いい子で我慢していれば、ようやくパパとママが見えた。
「パパ! ママ!」私は息が荒いおじちゃんから降りた。
「名前、近くで見てどうだった?」
「福家が惜しかったよなあ」
 パパとママはパワフルズを応援してるんだ。さっきまではわからなかったけれど、今はちゃんとわかる。でも、私はパパとママに言いたいことがある。それどころじゃないんだ。私はふたりに顔を近づけた。
「パパ、ママ! 私ね、野球やりたい!」
 ふたりともびっくりしてた。口がポカンって開いてた。これも国語で勉強したことだ、ついでにおじちゃんも。でももう決めたんだもん。神童さんになるって。まだ顔がおそろいのみんなに、私は神童さんみたいにボールを投げるふりをした。

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