短編

□Will get married.
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 つい何年か前は俺が一番歳下だったが、チームの中で歳下が増えてきた。さらには先日、神下監督にキャプテンを任せたいとの声もかかった。現キャプテンである猪狩さんのままにする方が適任ではないかと疑問を呈したが、猪狩さんは今後指導者としての道を歩みたいとその座を断ったらしい。あの人も変わったものだと時の流れを感じていれば、近すぎて認識できなかった穏やかな流動は必ずしも俺だけのものではないのだと気づいた。
「ただいま」
「あ、おかえりなさい」
 母の不在を埋める、今や翔太と朋恵の姉と化した彼女のことだ。彼女と交際を続けて早十年が経とうとしているが、出会った時とほとんど変化のない名字は未だに俺のことを名字で呼ぶ。「友沢くん」と。
 手を泡に包ませた姿は弟たちの晩御飯を終えた後のようである。ちなみに下二人の夜は早く、そして長い。すでに別室から寝息が聞こえてくるのだろう。今やこの空間に俺と名字のふたりきりだと頭の片隅で考え、彼女を眺める。エプロンをかけた後ろ姿はいやに無防備で、もしも後ろから油物が垂れてきたらどうするのだと思った。結われた黒髪が彼女の腕に合わせて微動を繰り返している。見下ろせる背中は前ばかりが汚れる要因ではない。引き寄せられるように彼女の背中へ歩んで行った。
 彼女の腰あたりで解けかけの結び目が俺をジッと凝視しており、これほどなく不快な気持ちになる。彼女は僕が守るとでも言いたげな脆いそれを、緩い力で取り払うと、驚いた彼女が振り返り−−いや、そうさせる前に強く抱きしめた。
「友沢くん? どうしたの」彼女の香りが泡に混ざる。
「……いや」
 その時、強く感じたのだ。近すぎて見えなかった、彼女の時の流れが。俺は多くを語れずに彼女の腹に回した手を滑らせた。ああ、これではいつもと同じだ。こうしてまた、名字の肌に触れてしまう。彼女は逃げるはずなどないと胸を張って言えるというのに、余裕もなく服の隙間を潜る俺の手。悪者だか正義だか追っ手から逃げているようにあわてていた。
 彼女の素肌を撫でる。筋肉など皆無に等しい薄い腹を通れば、俺にはない膨らみに手が届く。彼女のちょうど心臓付近。まさに、この名字名前を我が物にしてやろうとするには欠かせない場所なのだ。彼女の血潮はここから流れている。しかし、機能性としては良さの理解できないレースが俺の指を邪魔した。いや、何を言う。侵入者が偉そうな口を叩くなと言われたようで躊躇したものの、ひとたびのことである。料理上手な彼女の残り香に誘われて、腹を空かせながらそれすら掻い潜ろうとした。
「え、えっと、ちょっとまって……せめて寝室まで……」
「いや、待てない」
 官能的な布の下をすり抜ける俺の手は、いよいよ名字にとってあられもない姿への結び目を解こうとしていた。それを自覚してか、彼女も唇を噛み締めている。エプロンは前から飛ぶ油やなにやらの甲冑にしかならず、俺には大して効果などない。
 力を加えればすぐさま道を開ける気弱な下着の向こう側には、彼女がピクリと跳ねることも無理はない柔らかな谷が待っていた。俺は生唾を飲み込む。ここまできて我慢などなるものか。心地いい。無論そうなのだが、それだけではない。本能を逆撫でする不埒で甘美な感触だった。俺は声などかけていないはずだが、握るたびに彼女が応える。自身だけでは必ずしも触れることができず、さらには、この世に星の数ほどいる女の中でも彼女以外に触れようものなら俺はすぐさま手錠をかけられるであろう。−−そもそも、名字名前にしか情欲を醸し出す真似はしないのだが。
 とにもかくにも彼女だけである。俺の指に対し、頬を染め上げ艶やかな表情をしてみせるのは。これだから堪らなくなってしまうのだ。動悸がする。心臓が騒ぎ立てる。心臓を握られているのは彼女の方だというのに。身体中に熱が溜まっていく感覚は俺を蝕み続け、ついには知り尽くした名字の弱点を弾きあげるのだ。大きいとも小さいとも言えないごく普通のありふれた乳、均整美だけが立ち上がったそれが先端に返事をして跳ねた。ただ、それだけのことだった。特筆すべきことがあるとするならば、彼女が嬌声をあげたことだ。立派な鳴き声のくせに、甘く澄んでいた。それを聞き、もう一つ蕾のように上向いた固い乳首を指で摘み出してやる。すると、彼女は涙目で俺に縋ってくるのだ。もっとしてほしい? いいや、そんなものではない。
「か、身体だけはイヤっ……キスも、して……」





 俺は青いユニフォームに身を包んだまま頭を抱えていた。焦っているのだ。何に? 名字が欲しいのだ。緩やかな時の流れに漂いつつ、俺と彼女の視線は間違いなく異なる方向を見ているのだから。俺も彼女も互いを好いている。おそらく、愛しているかと聞かれても躊躇なく首を縦に振るだろう。しかし、彼女は俺の心だけで満足していた。それ以上を求めなかった。だから、その穴を埋めるように俺が彼女を求め続けたのだ。黒髪の奥を掻き分けて、名字名前の全てが欲しいと。
 彼女の肌に触れようと下品な手を繰り出すのは俺の方。あわてて俺色に染めようとするわけだ。その度に、彼女は何色でもなく透明な手でそっと俺を諭す。俺の気持ちが欲しいと。名字のことは好きであった。ああ、それこそ、世界一を謳えるほどである。翔太も朋恵も姉のように慕っている彼女、ここまで理解のある女は他にはいない。−−だからか、俺だけのものにしたいのだ。いや、すでになっていると自負している。それでも、彼女への欲は留まることを知らなかった。一番短絡的で本能的な方法によって得られるものは、とても十年ほどの関係とは言い難い子供染みた安寧だ。そんなものは一晩目を閉じただけで「大人のキミには必要ないでしょう?」とピーターパンとやらが持ち出してしまう。
 しかし、今のままでは我慢ならないのだ。この教科書もなければ手本もないあやふやな気持ちに、見事翻弄されていることを自覚しながら、俺は今日も三振を味わうしかない。ああ、もうすぐ試合だというのに何を考えているのだ。ドリトンと目が合う。すぐに逸らされたあたり、俺は相当わかりやすく悩みを赤裸々にしていたらしい。試合に集中しろと無言のメッセージを主砲から与えられ、頭の中で燻ぶる二文字を消した。
 俺にとって、野球は唯一無二であった。これさえあれば、何もかも忘れられた。あの名字ですら例外ではないのだ。喜怒哀楽の輻輳的な感情があろうが野球の前には無力。俺にあるいかなる気持ちも野球には敵わないとこんなところだ。−−二十六年、そう思って生きてきた。だけなのかもしれない。
 猪狩さんの背中を守っている時でも相手のエースと対峙する時でも、全力、文字通り滾るすべての力を注がねばならないというのに、今日ばかりは名字のことを考える余力が漏れてしまっているようだ。出会った時からあまり変わっていない長く滑らかな黒髪が風に揺れている様、それがバッターボックスにいるはずの俺を翻弄する。翻弄されるのはこのフォークが憎たらしい投球で十分だ。見送ったストレートに、ヘルメットを被りなおした。
 その甲斐あってか、試合後には仏頂面の監督に呼ばれた。この人の笑顔というのも見たことがあるわけではないが。
「友沢」
「はい」
「どうした、不調のようだな」
「……すみません」
「フォームやタイミングに乱れもない。なにか覇気がないように見えたぞ」
「返す言葉もありません。俺の自己管理の甘さです」
「……お前はうちの中軸なのだからな」
「はい」
 短い会話を終え、背を向けた神下監督はどこか俺に落胆したようだった。普段であれば、このままでは年俸が下がると頭を黄金色にして掻き毟るほど悩むというのに、今となってはぼんやりと現実を受け入れるのみだった。脆くも虚しくすんなり受け取られた監督の叱咤激励は毒にも薬にもならない。我ながらなんとも監督泣かせな話だと思うが、仕方ないのだ。
 やはり、今の俺には彼女のことしかなかった。試合前にも考えた不埒極まりない最終奥義をここでこれ見よがしに振りかざすか。男の卑劣な妄想がまさに具現化しようとしているのだ。しかし、そこまでしてでも欲しい。形なきものなんて美しいことは言わない、百人が批判的視点だとかいう武器を構えたところでぐうの音も出ない動かぬ信証が欲しい。そう、喉から手が出るなどと言葉の綾を穿り返したくなるほど欲しいのだ。たとえ、彼女の人生を変えようとも。
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