短編

□タイタニックの客人はどこへ
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 ある朝のこと。けたたましい目覚ましを叩き壊しそうに止め、布団を蹴り飛ばしました。制服とパジャマを空にはためかせ振りかざし着替えを済ませます。黙らせた時計が無慈悲に示すのは短い針が七の時刻。そういえたのならば、どれほどよかったでしょう。七は七でも、八に限りなく近い七だったのです。さしずめ、デジタル時計があったのならば五十九分ごろを光らせているに違いありません。数瞬前までは涎を垂らして寝ていたというのに、今や頭はスッキリ快晴、眠気など遥か彼方へ消えて冴え渡っています。むしろ、晴れ間が過ぎて汗をかいてしまうくらいですよ、もう。ちなみに、季節は冬。暑くもないのに流れる汗は矛盾していると思うでしょう? ですが、いやに冷ややかな雫だったので、やはり今は冬なのです。ええ、ええ。何を話しているのかは自分でもわかりません。ただ、ひとつだけわかることは、冷たい汗を流すほどの窮鼠がこの私だということ。猫の口はもう目の前。前歯を尖らせる暇もございませんね。
 そんな万事窮して、いえ、休しているにも関わらずに私はひとまず足掻いています。無造作に履かれた靴下は片側がずり落ち、直す余裕があるか否かなど口に咥えたパンが教えているでしょう。転がるようにドアを開け放てば、遥か遠くで始業の鐘が鳴りました。その方を見れば、梳かしもしていない髪が偉そうに靡きます。鐘は慌てた私にお誂え向きで、遅刻確定であることを静かに、無情に示すのです。
 ああ、どうしましょう。私のクラスの先生、それはそれは時間に厳しいときました。遅刻はしたくないくせに、白旗が上がってしまえば足は棒も同然です。これ以上、ムダな体力を使ってたまるとのかとどの口が騒ぐのでしょう、この殿方など知らない薄っぺらな口です。これでは羊頭狗肉、怒られても反論の余地はありません。もはや、権利として与えられていません。私はきっと、北風が背中を押す通学路を歩き、やがてクラス全員の前で赤っ恥を被るのでしょうね。ただただ黙りこくって頭を下げる自分が浮かびます。その顔の情けないこと。
 そんな辛気臭い私しか出てこないしみったれた風景でごめんなさい。ああ、天気だけは日本晴れあっぱれですので、ご勘弁いただけたら。なにを馬鹿みたいなこと、話しているのかしら。私はそれほどまでに学校に行くことを拒絶しているとでも? わざとらしく片足の靴下を引っ張り上げると、筋骨隆々な担任が浮かびました。年中タンクトップで過ごしていそうなあの先生は、言うまでもなく怒ると怖い。
 お天道様はサンサンと私を照らし続けています。ずうっとその前向きな光を浴びていました。目も覚める輝き。これに勝るものなどこれまでもこの先も太陽系には存在しないのでしょう。ですから、私は決めました。やっぱり走ろう。どうせやらなきゃならないなら、面倒くさいよりやってやると思う方がいい。それなら、どうせ怒られる身だ。思いっきり走ってから怒られよう。
 自分のどこにあるかもわからないスイッチを傾けて、私は駆け出した。目指すはその原動力となった太陽だ。晴れやか、人はこれをハレルヤと謳うのだろうか。ずり落ちた靴下を気にすることもなく、スカートを翻して、髪も乱して、おまけに投げ出しそうになった鞄を取り戻して。ゆっくりと流れていたはずの景色も後ろへと吸い込まれ始めた。その犯人はきっと風だ。なびく髪も揺れるシャツも、なにもかも食べてしまおうとする強風に飲まれないようにと逃げた。見えた、あの交差点。あそこで曲がれば、学校はもうすぐのこと。そこでのことだ、天の神様が私を見放したのは。
 勢いよく、何かに突進してしまったのです。その正体が人だとわかればあら大変、私は途端に小さくなりました。ああ、困った! 災難にさらなる難が積み重なってしまったのです。これでは、学校へ急ぐどころの話ではありません。
「ごめんなさい! あの、私、急いでて……! その、とにかくごめんなさい!」
 うつ伏せている人に駆け寄ると、私はその肩を揺すります。あの体育教師の前哨戦とばかりに、怒鳴られる準備はすでにできています。オレンジ色の髪の男の人は、頭を押さえながらゆっくりと体を起き上げました。そして、私と目が合うと、彼は眉をつり上げ……あら? つり上げません。頭に張り付いていた手が鼻の下へ落ちてきて、彼は少年のように笑ったのです。
「へへ、おいらも急いでたんでおあいこっすよ! それより、お姉さんは大丈夫っすか?」
「わ、私は大丈夫、ですけど……」
「そっかあ、それならよかったっす! あれ、よく見たらうちの制服着てますね」
「あ、本当ですね」
「それなら、目的地は同じってことっすかね? よし、じゃあ一緒に行きましょう!」
「え?」
「って、そうだ! もうチャイムが鳴っていたっすよ! 急ぎましょう!」
「えっ、え、と……」
 さらに、彼は何処の馬の骨とも知らない私の手を掴んだというのです。会話にもなり得ない、嵐のような方。間抜けた顔でその横顔を眺めていれば、彼にとられた手が立ち上がり、つられて私の足も本来の姿を取り戻しました。と、思ったら、今度は前のめりに引かれて走り出します。やはり、嵐のような方だと思いました。
 初めて会った、いいえ、会ったというのには語弊があるのかもしれません。名前も知らない男の人。しかし、彼に私は小さな芽が生えるのを感じました。なにが種だったのでしょう。普段は男の人と話すこともないというのに、触れられているということ? それとも、この駆ける足と風切る髪が私の歴史で一番の速度をあげているということ? チラリと彼を覗き込みたくなりますが、彼は私という重りつきで走っている最中。余計なことはできまいとその横顔を盗み見るに終わります。
 彼のくせのある髪が彩る顔を見ていると、なんだか突拍子もない行動を笑って許してしまうような気がします。だって、とても楽しそうに走っているんですもの。……その顔を、ずっと見ていたい。そんなバカバカしい考えに至ったことに気づいたのは、自分の髪が数本、口に入った時でした。
 私、なにを考えているのでしょう。髪食いの阿呆となって現を抜かしている様はなんともみっともない。しかし、世間色に見合いませんと拭おうとした心は、一切もって色落ちすることはありませんでした。何度、何度擦ろうとも、です。わらにもすがる思いで再び彼の横顔を見つめると、乱暴なことに一抹のわらは流されてしまいました。つまるところ、彼の無垢な瞳とかち合ったのです。
「そんな心配そうな顔しなくても、大丈夫っすよ! なんとかなりますって!」
 その言葉を聞いて、私は深海に沈んでいきます。掴むものも、助けを求めるものもない。深く、どこまでもどこまでも。深みにはまる? そんな浅はかなものではありません。底の見えない沼、足を引かれる思いを感じてしまったのです。こんな急がねばならない場面で。
 しかし、住めば都とは誰が言ったのでしょう。確かに私はどこか深くまで落ちていったはずですが、心奥は軽く、手は熱く、これほどまでに人間らしい感覚を訴えました。事実、気持ちがよかった。ずっと、この感情に縛られていたいと思ってしまうほど。あべこべな私は、彼にずっと手を引かれていたいと願ってしまいました。
「ゆっくりで、大丈夫ですから」
 不思議です。ずり落ちた靴下、乱れた髪、ここにきて、気になり始めてしまったのですから。落ちていく先はどこでしょうか。でも、怖くないと胸を張る私がいるのです。

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