短編

□勇往に淡い花が揺れる
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 大学生になって、少しだけ大人になった。僕はずっと大人になりたいと思っていたのだから、そう見栄を張りたくもなってしまう。いいや、張ってもいいじゃないか。僕はそんな虚勢をもって大人への階段を目隠しで登っていた。落ちてしまうかもしれない。そんな心配は、はなからしないつもりだった。
 夏の日差しと蝉の鳴き声でふやけてしまいそうな日曜日。世間の学生は、文明の利器で冷やされた快適な部屋で未だ微睡みの渦中に違いない。反する僕は、真夏の攻撃をこれでもかと食らっていた。部屋の中ではない。強すぎる日光に焼かれた小麦色の野球グラウンドで、だ。そこで勇ましく打撃やら守備やらをしているわけではない。僕の視界を埋めるのは、自分の膝と手、そろそろ買い替え時かもしれないボロボロのスパイク。スパイクはもちろん、僕自身も土色に染まっている。僕以外の誰かから見れば、覇気なく背を丸めて物憂げに座り込んだ男にしか見えないのだろうな。しかし、百も承知である自分の見窄らしさを是正する気も起きないのは、まさに僕の手緩い性格のせいだ。断じて、夏バテだなんて便利な言葉に逃げるわけではないですよ。お天道様に罪をなすりつけるつもりはない。もっぱら、男としての屈強さ、そのくの字もない僕の脆弱さに嘆く他ないのです。
 俯けた顔を上げる。待っていましたと陽光が僕の瞼を刺激するけれど、僕はその見たくもない光景をしかと目に焼き付けた。そこには、チームメイトの日本くんとマネージャーの名字さんがいる。焼けた肌よりさらに色黒の男らしい日本くんは、ああ見えて僕より一つ年下。僕と比べるまでもなく彼は雄々しい人だ。一方、僕と同級生の名字さんは日本くんとは対照的。世間の女の子というイメージを、そのままロボットにして生命をはめこんだような、いわば女性的な人だった。
 その、まあ、日本くんがなにかを言うごとに名字さんが笑っている。明るくケラケラと声を上げる名字さんは、日本くんがよほど面白いのか、彼の大きな肩を叩いた。すると、大きな瞳をパチクリと瞬かせたのは日本くん。彼にとって先輩であり女性である名字さんに反論などすることはなく、彼はおとなしく彼女の紅葉型手型でもできてそうな箇所を撫でる。
「もう、笑わせないでよう! 日本くんは面白いねえ」
 名字さんは腹に手を当てて笑っていた。日本くんは不思議そうに髭を揺らしていた。そして、僕はそれを指を咥えることも、涎を垂らすこともなく眺めていた。指より涎より、遥かに為すすべもなく立ち尽くしていたからだ。実際には、座って小さくなっているのだけど。
 ここまででもうわかるかもしれないけれど、僕は名字さんの笑顔が好きだ。歯を見せて、口角がこれでもかと上がって、愛嬌の化身のような笑顔が好きだ。ニッカリと太陽を浴びるミカンのような笑顔をじっくりと舌の上で味わってみたいと思う。ああ、変な意味じゃないんだ。単純に、そして純粋に、名字さんの笑顔にずうっとあてられていたい。けれど、僕では日本くんみたいに彼女を笑わせることはできない。つくづく、彼のようなユーモアがあればいいのにとないものねだりに委ね駄々こね……ああ。おおよそ、こんなネガティヴなところがダメなんだ。そう、僕なんて……。
 気づいたら背中はさらに丸く萎んでおり、ため息まで落ちてきた。なさけない。こんな僕に彼女が振り向いてくれるはずもない。白すぎる手を擦り合わせた。焼けはしないというのに、なにをしているのだろう。
「初野くん、なにをしているでやんすか?」
 それでも、話しかけてくれる人はいるみたいだった。特徴的な喋り方に顔を上げると、太陽を反射した神々しいメガネが目に入る。向こう側の瞳は鉄壁の瓶底で守られた先輩だ。
 たかがひとつ、されどひとつ、歴とした年の差があるというのに、彼は当たり前のように膝を折って腰を下ろす。そして、僕と同じ背丈になる。近づいても褪せることのない護りが備わった顔だというのに、不思議と彼がどんな表情をしているかがわかる。メガネに食い込みそうなほど、眉が下がっていた。
「矢部先輩……」
「もうすぐ守備練習が始まるでやんすよ」
「もしかして、呼びに来てくれたんですか?」
「やんす」
「……ありがとうございます」
「そりゃあ、守備練習といえば初野くん! 今日も華麗なグラブさばきを期待しているでやんす」先輩は頬を上げて笑う。
「期待……。僕に……」
「オイラだけじゃないでやんすよ。キャプテンも、みんなでやんす」
 先輩は僕の隣から立ち上がると、背中を叩いた。温かい言葉に僕は胸を鷲掴みにされた。先輩とは偉大な存在だ。「オイラ、先に行ってるでやんす」とグラブをはめた左手を閉じ開きした姿がなんだか眩しい。名字さんへ感じている煌めきとは色が違うけれど、僕はわけもなくその背中を見つめていた。穴でも開きそうなほど、であったかもしれない。
 先輩は日本くんと名字さんを呼びに行った。日本くんは二つも上の先輩に呼ばれ、背筋がシャンと伸びる。名字さんも先輩について行った。僕も行かなくては。先輩からもらった温かさを胸に自分を奮い立たせる。そうだ、矢部先輩やキャプテンにとっては最後の夏。僕ら後輩にできることは、彼らを甲子園に連れて行くこと。脇役でも縁の下でも構わない。僕は、この先輩たちと一戦でも多く試合をしたい。一緒に甲子園の土を踏みたい。そうだ、そのために僕は守ろう。内野の中枢、セカンドは絶対に越えさせないぞ。
 いつしか、名字さんと日本くんによって漂っていた身勝手な退潮は消えていた。名字さんがどうだとか、彼女を振り向かせたいだとか、さぞかしちっぽけなものだったのかもしれない。振り向かせたいのは、甲子園の方だ。
 ようやく僕は腰を上げた。灰色の砂がついた尻を叩くと、一様に足が引き締まる。背中が固くなる。そうして、矢部先輩を追いかけた。俊足を謳われる先輩だけれど、今はその本領を発揮しているわけではない。もて余して項垂れていた足にムチを打つ。先輩の背中が近くなり、今度は僕が彼の肩に手を伸ばす番だった。
「先輩!」
「初野くん」振り返った先輩に笑うのも、僕の番だ。
「守備練習、行きましょう。先輩の期待に添えるよう、今日も頑張りますよ!」
「けど、その後ろにはオイラもいるでやんす!」
「フフ、わかってますって。頼りにしてますね」
「オイラがついていれば、大船に乗ったも同然でやんすよ!」
 矢部先輩を追い越そうとすれば、彼は僕より大きな一歩で走り出す。隣同士。先輩と並んで、僕はこの人と甲子園に行きたいと、そう思ったんだ。
 これから茶色の薄汚れたグラブをはめられるであろう左手を握りしめる。この手は、飛んでくる打球を捕えるためにあるのかもしれない。握った手を開く。中指と薬指が少しだけ太い。その二本の選手生命を右手のそれで撫でた。今日も頼むぞ、そんな気持ちをこめて。
 さあ、もう座り込んだ僕はいない。だって、ちっぽけな悩みなどは先輩が消し飛ばしてくれたのだから。帽子のツバに触れ、脱帽をした。先輩は、上下関係を重んじるきらいはない。かくして、僕の帽子はすぐさま頭に帰って行った。
 日本くんと名字さんは、僕と矢部先輩の後ろから慌てもせずに歩いてくることだろう。容易に想像できる二人に、僕は再び腰を下ろすこともない。ああだこうだと卑屈に考え込むこともない。そして、名字さんが日本くんに「初野くんって野球になると男らしくて、いい感じだよね」と呟いていたこと、さらには、日本くんが大きな顔をゴクンと頷けていたことなどはもちろん知る由もない。

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