短編

□箱庭の空に手を伸ばす
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 一言でいえば、異国の世界のようだった。俺の背丈を遥かに越える木々が、人間というちっぽけな存在を覆い隠すかのごとく何層にも葉を重ね、空を見せなかった。しかし、牢屋のような居心地かと問われれば違う。長身の緑が薄汚れた空気から守ってくれるような気さえした。高原は多湿であった。というより、生憎の雨天であった。いいや、生憎と呼ぶのは少々趣に欠ける。好物の湿り気を吸う木々の姿は、俺たちが食を貪る姿より遥かに美が宿っていた。しかし、木々たちの慎ましげな小口では雨露を全て啜ることができなかった。抱えきれなくなった夜空の雨は、白く揺蕩いあらゆるものを包み込んだ。世間ではこれを霧と呼ぶらしい。
 さて、この包み込まれたものの代表こそが街灯である。夜の街を照らすためにある、瓢箪型の洒落た明かりは、辺りを幻に変える霧とは相反している。ではこれらを並べてみれば、目に苦しい光景ができあがると思いきや、それは見事な見当違いだ。霞む街灯は輪郭を失いながらも、代わりに息を飲むような切り札を魅せつけてきたのだから。光の輪郭だ。靄がかかった街灯は己の存在理由を懸命に果たそうとした。その結果、白に負けじと赤青黄虹色の細長な輝きを淡く放ったのだ。
 その幻想を彷彿とさせる明かりが非力に照らすは、木々が取り囲む道。砂利道のような野生ではなく、コンクリートで固められた道だ。街灯の側に敷かれ、遥かに遠くまで真っ直ぐに伸びている。もちろん、緑を従えて。さらには、その儚い光は同じく儚い彼女を重ねていた。
 彼女は傘も差していない。緑の傘があるのだから小さなそれは必要ないのだ。確かに雨音が騒ぐというのに、俺も彼女も見えない空を見上げている。薄らと葉が現れたような気がしたが、直ぐさま霧が覆い隠した。
 夏の夜、汗もかかずに名字が微笑む。風もなく、闇夜に冷やされた高原の澄んだ空気だけがそこにあるのだ。
「気持ちのいいところだね」
「そうだな」
 −−ことの発端はなんてこともない、チームの先輩の言葉だ。試合の後、ユニフォームから着替えていた先輩が、汗で濡れた髪を掻きながら声をかけてきたのだ。
「友沢、お前結婚しているんだっけ」
「いいえ」
「あれ、じゃあ彼女だっけか」
「ええ、まあ」先輩は嬉しそうに笑う。
「それならさあ、旅行にでも行きたくないか?」
「……旅行ですか?」
「そうそう」彼は懐を漁る。出てきたのは三つ折りのパンフレットだった。
「ほら、ここだよ」
「有名な観光地じゃないですか」
「そうなんだよ。俺さあ、ここの別荘に行くつもりだったんだけど、嫁の予定が入っちゃって。代わりに友沢、その彼女さんとでも行ってきてくれないか?」
「えっ、俺ですか……?」
「ほら、一年目からよく頑張っていたしさ。たまには息抜きしてこいよ。お金は払ってあるからさ」
 先輩は日時の書かれたパンフレットを俺に押し付け、アンダーシャツを捲り上げる。大変な男前だ。俺といえば、清潔感やら美しい様を示すあのトランプのダイヤがごとく眩しく輝く先輩を見ていた。この人、なんと言ったか。料金は払ったと。つまり、俺はタダでその、あの、ほら、かの有名な憩いの場所に行けるということ。
「いいんですか!?」つい、先輩の肩を掴んでしまった。
「うぉぅ!? お、おお、もちろんだ!」
「ありがとうございます! 行ってきます!」
 かくして、俺は楽園の切符でも手にしたようにパンフレットを鞄の奥底へしまい込んだのだ。チャックがあわてて布を噛んだ。歯ごたえはガムに似ている。
 −−とまあ、こんな具合だ。その日はひたひたと近づき、やがて暑さを離れてきたというわけだ。たまにはいいだろうと野球を忘れたこの空間、日頃は野球に誠意を尽くす俺と、料理に誠意を尽くす彼女。珍しく、互いに羽を伸ばしていた。
「ねえ、友沢くん」
「なんだ」
「見て」彼女が指を差した。
「……シカ、か」
「こんなにも近くに道路があるのにね」
「いや、違うな。そうじゃない」
「うん? どういうこと?」
「こんなにも近くに、自然があるんだよ」
「そっか……。そうだね」
 道路から逸れれば、直ぐ様山肌が剥き出しとなってこれ見よがしに人里らしかぬ雰囲気を放っていた。そこに、彼はいたのだ。彼女がシカを眺めた。シカは円らな黒眼をパチリと瞬かせる。逃げようとはしないらしい。隆々と伸びたツノでひと突きされようものならとても近づける代物ではないが、彼がそのようなことをするはずがない。どこから来たのか、シカ同様わからない自信を携え、俺も丸々とした黒目を見る。
 この幻想とメルヘンをミキサーにかけた世界で、シカはいやに現実的だった。そういえば、俺はプロ野球選手だったな。シカの角から足先まで舐め回すように見つめ、いよいよそんなことを考えた。
 シカは永く俺と名字を見ていた。俺と彼女も同様であった。異種間のアイコンタクト、なにを伝え合おうか、いいやなにを伝えられるか。しかし、いつしか俺はソイツを人と同じくして眺めていた。微笑んだのなら、鏡のように返してくれるだろうか。下らないことに思慮を凝らし、喉元過ぎない生唾。よっぽど、今だけは野球選手などという堅苦しい肩書きよりも動物園飼育員の方が欲しくなる。つまりは、目の覚めない非現実に縋っていたいだけとでも言いたいのかもしれない。真相は霧だけが知り得る。
「シカさん、こんにちは」名字が話しかける。
「こっちは危ないよ。今はないけれど、車も通るし」
「出てきちゃ、ダメだよ」
 母が子に言い聞かせるような姿で、名字はシカの身を案じた。シカは棒のような足を動かすことはせず、そのまま人工と自然の境界線を跨ごうとはしない。彼女の言いつけがわかっているのか、はたまた最初から突っ立っているだけなのかはおそらく後者だろうが、なるほど、賢いなと舌を巻いた。
 シカはもう一度瞳を瞬かせた。異種間の対話かなにかがこんな高原の風吹く避暑地でも行われ、それでも夢だと思えないのはおそらくこの非現実の賜物であった。だが、同時に彼が訴えかけてきたような、そんな気がした。
「名字」
「うん?」
「帰るぞ」
「えっ」
「もう遅いからな」
「でも、ここからは近いし……」
「コイツらも寝られないだろう」
 彼女に背を向け、俺はこの数日間の自宅を目指す。慌てた足音が追いかけてきて、心底安堵したことは口外しないでおこう。パタパタとした足が隣に並んだ。彼女は俺にむくれる様子もない。
 俺は足元に目を落とした。西洋まがいなランタンに照らされたアスファルトが転がっている。顔を上げた。誰の手も入れられていない山が今ここから聳えているのだろう。かなりの傾斜である。さあ、人里ですっかり考えることを忘れた頭では、彼らの気持ちなどわかるものか。そうだ、幻想的であり、幻であってほしいのはどちらの世界だろうか。俺たちなどきっと、彼らからすれば奇妙な音を発して意思疎通を図る未確認生物に違いないのだ。振り返ると、霧のかかったシカがこちらを見ていた。今にも隆々と伸びたツノでひと突きしてやろうと目論んでいるようで、とても近づける代物ではない。
 木々の傘は何食わぬ顔で俺たちを雨の脅威から守ってくれていた。しとしとと葉の上に落ちる雨粒が、いやに愛おしく感じる。今や、この小洒落た街灯の電気が切れたところで、雨は降り続けるのだろう。
「フフ、まさかシカさんに会えるとは思わなかったな」
「そうだな、俺もだ」
「幻想的なこの景色が巡り会わせてくれたのかな」
「どうだかな。ただ」
「ただ?」
「幻想なのは、どちらにとってだろうな」
「どういうこと?」
「いや、気にするな」

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