短編

□咲くは一握の好機
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 読者に問いたい。ここまで己が闊歩してきた雪原の轍のような足跡、その生まれてこのかた積み上げた足型の積み木では歯もたたないどころかダイヤモンドを噛もうとした愚の代名詞となるがごとく歯が抜けてしまいそうな状態に立たされたとする。このように万事ことごとく休し、海路の日和も大嵐に飲み込まれたのなら、お前はどうするか。



 猛暑の権威である太陽が少しばかり張り切りすぎた夏のこと。こちらは野球が控えているのだから、太陽には控えていただきたいと大雨に降られたような汗で訴えかけていた。それでも黙々と光り続ける猛暑の権威。立派な肩書きを頂戴しているわりに日本語は通じないのだろうか。
 何を言っても無駄であると見切りを付けた。そうして、炎天下のグラウンドで黙々と練習をしたのだ。死にもの狂いであった。気を抜こうものなら肉は焼け骨は溶けグラウンドの一部となるからである。グラウンドの砂は地獄の釜のごとく湯立ちそうであり、俺を中心とした半径二キロメートルに存在する「暑さ」という概念を一切合切この地に拾い集めたのではないかと思われるほど暑かった。誰も間抜けそうに口を開いて「あちぃ」などと言えないほどに暑かった。死人に口なしとはまさにこのことかもしれない。
 そこに彼女はいた。彼女はマネージャーであるがゆえにいつも日陰にいたが、薄らと汗をかいていた。まっすぐに伸びたクセのない黒髪を惜しみもせず結び上げる少女の姿を隙あらば盗み見ていた。
 彼女、名字名前のまわりは長閑で温静で、人からの好意に充ちている。ついでに彼女の長い黒髪からは清い香りがするであろう。一方、俺のまわりは若気の雑然とした熱さに充ちている。人からの好意はとくにない。
 清水の湧き出し口のような彼女は、どうやら俺のことを色眼鏡で見ているようだった。神様が二物三物与えたもうた天才だと思われているらしい。これは信頼できる男からの情報だ。二物三物などあるのなら、今すぐにでも野球だろうが彼女だろうが意中手中に収め高笑いをしていることだろう。彼女が思うようなスーパーマンではないのだ。残念ながら。
 そんな俺にも一握の砂ならぬ一握の恋風吹きすさぶ勇気くらいはもっていた。砂漠のオアシスの権化である彼女を地獄の釜から助け出すべく、夏の夜の祭に誘ったということだ。
 読者よ、この様をご覧いただけばわかるだろうか。薄暗闇で白いワンピースに身を包み、慎ましく俺を待つ彼女の姿といえば、日々の俺自身が揃いも揃って羨み嫉妬し地団駄を踏むほどの温純たるものであった。「羨ましいッ」「お前にそんな権限はあるのか」「アイツを念願手中に収めることだって夢ではない」「私服が可愛い」彼女への大喝采が飛び交う午後七時のことである。
 その顔を振り向かせたことで、最早祭騒ぎは最高潮に達した。花火が彼方此方で咲き乱れるほどに俺の一握の勇気は弾け飛んだ。彼女はその爆発音も露知らず、嬉しそうに駆け寄って来る。
「人がたくさんいるね」
「そうだな」
「友沢くんもこんなところに来るんだ。意外かも」
「悪かったな」
「ええ、そんなつもりじゃないよ」
「……悪かったな」
 彼女は表情を曇らせることもしない。両手両足で数えるほどの口数である俺は肝を冷やしたが、彼女の前では関係ないのだ。どうやら彼女のまわりには人からの好意どころか神からの好意も充ちているらしい。清い香りに混じり甘い香りもしそうだ。
 下がり眉をしながらマシュマロを指で突いたような微笑みを見せる名字に、なぜ全人類が意を貫かれないのか甚だ疑問である。いや「名字さんって優しいよなあ」などと浮かれ自惚れ色恋に染まった顔をする輩がいれば今すぐにでも腑が煮えくり返るが。
 彼女を取り巻く静謐は俺だけが知っていればいい。事実、その気はなくとも人目を引くらしいのは俺の方。これは信頼できる男からの情報だ。
 彼女は砂漠に埋もれた双葉のような存在だった。彼女の清澄を率先して知ろうとする男はなかなかいない。いや、彼女は若気の混然など知らなくていい。このまま、華やかさに欠けた黒髪で隠れた清廉な彼女の魅力がどうかこの手に留まってもらえないものか。手を握りまた開き四苦八苦した。
 俺の利己的な勝手で頭を悩ませていると、彼女は林檎飴が食べたいと言い出した。白いワンピースと黒髪の乙女、それだけで十分だというのに、林檎飴と彼女の組み合わせが映えることを太鼓判が認める。するとどうも見たくなるものだ。
 しかし、ここで彼女の手を取り駆け出してはいけない。せめて、彼女の前でだけでいい。世間蔓延る男とは一線を画していると思われねばならないのだ。
 かくして、提灯と提灯の間、人と人の間をそっと抜けながら、目的の屋台へとやって来た。目の前には串を刺された鞠のような林檎飴が二十ほど、奥にいる店主を護るように立ちはだかっている。彼女は瞳を林檎色にし輝かせた。
「おじさん、これひとつください」
「はいよ! なんだ、兄ちゃんはいらねェのかい」
「俺は遠慮しておく」
「今日は祭だぞ」
「なんとでも言え」
「それじゃあ、この人の分もください」
「おい」
「話がわかるねえ、姉ちゃん! いいカノジョをもって幸せだなあアンタ」
「……彼女じゃない」
「照れんなって! ホレ、アンタみたいな色男はオマケだよ」
「タダか?」
「おうよ!」
「それならいただく」
「お、おう?」
 二つの林檎色と一つ分の小銭を散らして、名字と俺は早々にその場を去った。店主の閉まらぬ口が閉まることなど待ってはいられない。
 名字はご機嫌よろしそうに林檎色を舐めていた。さらにはしきりに微笑んでいた。これは相当美味いに違いないと、俺を見上げる赤い円実を味わう。
 舌が動きを止めた。砂糖に蜂蜜、他に胸焼けがしそうな甘味の露が固まってできた飴かなにかか。これを笑満面で喫する彼女には素直に脱帽したい。しきりに唾を飲み込んだ。
 ふと、彼女が髪を耳にかけた。俺は出てきた小さな耳に釘付けになる。林檎色とは正反対、彼女が身にまとうワンピースに似ている色だった。
 そのくせ、林檎飴を舐める控えめな舌は真っ赤であった。鳥の雛が初めて巣から顔を出すような愛らしさを携えながら、彼女はチロチロと林檎飴を堪能していた。
 問題は、俺が意中である名字を凝視していたことだ。
 彼女は俺の視線に気づき、頬を林檎飴のようにした。それから顔を背け林檎飴をしきりに舐めていた。「お、美味しいねっ」どう聞いても美味しそうには聞こえない。つまるところ、彼女はなにかを隠そうと林檎飴を盾にしているのだ。しかし、店主ならまだしも、一本の林檎飴ではとても彼女を護れそうになかった。
 だが、彼女は隣にいる俺ではなくどうして赤玉などに助けを求めるのだ。もしも、彼女の手を恋風吹きすさぶ俺が捕まえさえできれば、名字名前を護るという高尚な名誉を木から落ちた果実などに取られはしない。一人の男が林檎ごときにプライドをへし折られたなど童話にもなり得ないスカタン話も休み休み言え。
 木の枝のようにポッキリと折られたプライドもとい己自身を彼女の前だと再び奮い立たせる。
「名字、見たいものはあるか?」
「……いいの?」
「もちろんだ」
「えっと、花火があっちで上がるらしいから見に行きたいな」
「よし、それなら行くぞ」
「うんっ」
 ようやく林檎飴と共に振り返った彼女の笑顔は、飢饉の危機に瀕する天命からの恵みの雨であった。自分の選択を褒め称えたい。
 彼女と林檎飴と花火、これほどの神聖な三位一体は界隈どこを探しても目を凝らしても見当たらないであろうと太鼓判が認める。するとどうも見たくなるものだ。しかし、ここで彼女の手を取り駆け出してはいけない。せめて、彼女の前でだけでいい。一夜に偕老同穴の契りを手にしようとする男とは一線を画していると思われねばならないのだ。
 彼女はくすくす笑った。
「花火が見れるなんて夢みたい」
「近しい夢だな」
「私の地元はこんなお祭がないもの。連れて来てくれてありがとう」
「ああ」
「まだかなあ」
「まだだろ」
「ふふ、楽しみ」
 嬉しそうに夜空を見上げる彼女につられて闇夜を見る。
 そこで話は冒頭に戻る。



 様々な屋台が立ち並び提灯と共に街灯を暑夜に投げかけるものの、通りは人で溢れており人型アリの巣のような有様であった。
 林檎飴などつけいる隙間もなく、彼女の黒髪を餌に甘露を我慢して舐め続け、ようやくその甘味地獄から解放された。
 花火の時間が近くなるにつれ増す人間地獄にまたも彼女の黒髪を眺めることで閑を潰していた時のことだ。彼女が大柄な男と接触した。すると、俺から見て小柄な身体が揺れる。反射的な謝罪を口にした彼女はすでに体勢を整える暇などない。このままでは床に伏せる病人のように石畳へと倒れこみそのまま病院へ送られてしまうかもしれない。それでは彼女が床に伏せてしまう。
 そうして、ついに奥の手をうつ。
 目をパチクリとさせる名字の腕を引いた。偶然の賜物とはいえ、彼女をこの胸に抱きしめたのだ。そのせいで、俺は致死量に近い幸福を味わい、さらには危うく死ぬところであった。彼女はやはり清い香りと甘い香りがした。
 それだけであれば、かろうじて一命を取りとめる手段が残っていた。
 しかし、俺の腕の中にいる彼女が上気した頬のまま離れようとしなかったというのだ。
 生まれてこのかた野球ばかりにかまけており、練習のれの字は知ろうとも恋愛のれの字は知るはずもない。ましてや、彼女のこととなろうものならなおさらだ。
 こういう場合、女にはどうすればいい。いやそれが意中の相手であればどうすればいい。十云年の脳に聞いたところで無視を決め込まれる。十云年もの歳月を重ねてきたわりに頼りにならない。
 こうして、弓折れ矢尽きた俺は問うのだ。万事ことごとく休し、海路の日和も大嵐に飲み込まれたのなら、お前はどうするかと。できることなら彼女をこのまま抱きしめ、世間蔓延る一夜に偕老同穴の契りを手にしようとする男どもに紛れ、掴んだかと思われる好機を霧消せずして手中に収めておきたい。
 離れようとしない彼女に、離そうとしない俺。
 静穏な夜空に轟音と大輪花火が咲いた。

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