短編

□二重螺旋の林檎
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祖国は美しいと言ったの続き

 私は、野球が好きでした。父がかの有名な野球選手であったとか、幼い頃に赤白の手のひらほどしかない球を追い続けたとか、そのようないつまでも輝きを忘れない思い出があるわけではありません。ただ、長い階段を登るような童心擽るむず痒さが好きだったのです。うそです。口から出任せました。なぜ、ここまで心惹かれて離していただけないのかは、蜘蛛の糸に捕らわれた私が知る由もありませんので、野球本人にどうぞ聞いてください。
 都会ながら、大きくも小さくもない、頭の高さも中腰の高校。それが毎日オモシロイことを求めて足を運ぶ場所です。ちなみに、通いはじめて二年と少々、オモシロイこととやらの遭遇は未だ草陰に隠れています。
 教室へ汗を滲ませて駆け込みます。いわば、遅刻組と呼ばれる者です。うそです。私は、この教室で日々一番に来ます。後ろの窓際、その机に頬杖をつきながら、教室の支配者である先生にアウトやらセーフやら騒ぐ彼らを眺めているのです。
 彼らの横を過ぎ去り、堂々と自らの机へ向かうのは野球部でした。朝の練習と銘打った遅刻免罪符を片手に、彼らはいつだってゆっくりと自分の席の椅子を引きます。私は、その手つきを穴が空くほどじっくりと見ていました。
「おはよう、名字さん」
 不意に声をかけられます。
「あなたは……おはようございます」
「暑いね」
「そうですね」
「今日も、野球部を見に来てくれるの?」
「はい」
「そっかあ。それなら頑張るよ」
「そうですか」
 彼です。クラスが違うというのに、彼はそっと私に挨拶をすると、生きるか死ぬか水面下の探り合い、修羅場半面と化した地獄のような木製タイルを飄々と踏みしめて去って行きました。
 私は野球部の方に目を奪われています。ただ今の彼ではありません。しかし、彼は私にそのようでした。私などを見ているくらいなら炊飯器を見ている方が遥かに心踊るような気がしますが、彼の思考は彼にしかわかりません。余計な詮索は止めにしましょう。
 彼が教室から背中ごと消えると、先生からお許しを乞うている彼らがいよいよ膝をつきます。なんと! こんなところで額を擦り付けるのでしょうか。完膚なきまでに失墜したプライドと共に地に平伏してしまいそうな彼らは、一体何が欲しいのでしょう。ナイシン? そんなもの、プライドを捨てるくらいなら喜んで地中深くに捨てましょう。タイムカプセルでも掘り起こせません。



 話が逸れました。なんの話をしていたのでしょう。オモシロイことを求めるくせに、自分からオモシロイことのひとつも話せないのです。どうか、お許しを。完膚なきまでに失墜したユーモアと共に地に平伏し謝罪いたします。
 それはそうと、下校時間がやってまいりました。朝方、先生の奴隷のような絵図の登場人物たちはみな我先にと教室を出て行きます。
 私といえば、机の中を空にして全ての負担を鞄に押し付けます。こちらの方がよっぽど奴隷のようで、明日はその口からいらぬものを吐かせてやろうと慈愛溢れる背光にひとり身震いをしました。
 彼が立ち上がります。野球部の彼です。彼は、大きなダンボールのような正方形の教室を駆け抜け、出て行きました。私はそれを数学の問題文のように一挙一動逃さずとしていました。うそです。ぼうっと間抜け眼で追いました。それはまるで夢見心地の瞳でした。
「名字さん」
「はい」あの人です。
「野球部、見に来るんだよね」
「ええ、そうですね」
「そっか。じゃあ待ってるね」
「はい」
 彼は不思議な人です。なぜ、私に声をかけるのでしょう。今も教室を出ようとする彼に黄色を通り越した桃色の猫なで声が飛び交います。「鈴本くうん、応援しに行くからねっ」「うん、ありがとう」「頑張って、大輔くん!」「ハハ、頑張るよ」彼はスズモトダイスケくんというのでしょうか。スズモトくんの人気が滝登り龍のごとくであることは言うに及びません。
 一方の私は、大して目立ちもしない一般女史です。まさしく特筆することもありません。人気者である彼の凛々しく女性を釘付けにさせる容姿の方が、記すに華やかでしょう。
 ちなみに、私の眼中を占領する彼は、どちらかと言うまでもなく私のような炊飯器を見ている方が遥かに心踊る青年です。私は炊飯器よりなによりも見ていたいと思うのですが。願わくば、私めも彼の眼中にとっても炊飯器以上の存在になりたいものです。
 知っています。世間では、これを恋と呼ぶのでしょう? 私は彼に恋をしています。だから、野球が好きなのかもしれません。うそです、などとはよく言いました。好きな人が好むものを好きになる、乙女々しいことをしてしまっただけです。
 とにかく、彼を見に行かねば私の本日はネガ写真のままなのです。恋する乙女でよろしいではありませんか。風貌に合わないなどという異論はことごとく却下いたします。
 野球部のグラウンドに彼はいました。白い帽子やユニフォームに身を包んだ姿は、私が一番好きだといって過言ではありません。目に入れても痛くも痒くもないほどです。うそです。私は目薬すらまともにさせません。
 彼のいる一塁側へ近づきました。本日もスズモトくんがいるマウンドにはまるで満員電車のように女の子が駆け寄って行きます。十両では足りないほどの列車がつながっていくのを、幼い頃に遊んだジャンケン列車とでも呼びましょう。
 そうというのに、彼はなんとも罪作りな方でしょうか。ジャンケン列車には目もくれず、私を見つけ出したのです。「名字さん!」風に揺れる爽やかな黒髪を揺らして、彼は私に手を振ります。好青年とはまさしくあのような方のこと。
「スズモトさん」一塁側へ来ます。
「僕の名前を知ってくれていたんだ。嬉しいなあ」
「今日知りました」
「じゃあ改めて。僕は鈴本大輔」
「そうなんですか」
 ジャンケン列車から鳥の群れより遥かに多い瞳が睨みを利かせます。
「名字さんはどうして一塁側にいるの?」
「なぜでしょう」
「相変わらず面白いなあ」
 彼は変わったことを言います。私などのユーモアはすでに粉砕されており跡形もないというのに。
 やがて、女尊の世があるのならその大名行列と思わしき女性たちが私への満腔の憎悪を剥き出しにしました。燎原のような怒りを露わに、「彼を返せ」と口ほどにものを言う血眼を振りかざしているのです。心外な! 私はあなた方から鈴本大輔くんを取り上げようなど一抹も考えたことはありません。
 彼の背中を押すようにマウンドを指差します。
「名字さん」
 彼に聞くためのお耳はないご様子です。
「ファーストの人が好きなの?」
「そうですね」
「ふうん、そうかあ」
 よしきた! 私は思わずガッツポーズをしてやりたくなり、大名行列に勝者ばりの笑顔を返してやりました。私はしがない村娘なり。同じ村の男が意中の殿方なのです。こんな大層なお方は始めからあなた方のものでございまする。
 浅い胸を張りたくなるほど誇らしいです。それは紛れもなく一塁側の彼のおかげ。同じクラスのその殿方です。
 しかし、彼はパチンと瞬きをしてから微笑みます。
「でも、僕はそういう君が好きだなあ」
 続いて、思わずガッツポーズを垂れ下げてしまいました。彼が投じた一石に私の誇りはガラスのようにヒビ入れられ、そのままパキリと威勢のいい音とともに多摩川の藻屑と沈みます。
 あわてて彼女らを見れば、不幸中の幸いか、二足歩行ロボットのような私の挙動も飄々とした彼の微笑みもご覧入れていないようなのです。ロボットダンスサークルたるものが存在するのならば、道場破りも看板を持ち帰ることも可能であろう私は、生まれて初めて現実の人間の口が「ギギギ」と音を立てて開くのを聞きました。
「え、っと」
「名字さんは野球が好きなんだよね」
「は、はい」
「そして、ファーストのあの人が好きなんだよね」
「ハイ」
「フフ、僕は名字さんが好きだよ」
「ハア」
 彼は静かに背を向けました。
 なぜそんなにも冷静でいられるのでしょう。その時の驚きたるや、筆舌に尽くせません。この告白を赤い顔ひとつせずに、林檎までもが恋の始まりを思わせる夢見がちな乙女に変わってしまいそうな甘い青年顔で言ってのけたのです。彼の恋敵たちは、ここで雲霞のように現れるのだと感服いたしました。
 しかし、私は恋とは無縁で生きてきた女。いいえ、正しくは恋慕を寄せられることとは無縁で生きてきたのです。彼が秘めていたのかは定かではありませんが、その確かな想いに二足歩行ロボットもついには動かなくなってしまいます。
 私は心を落ち着かせるために、しきりに手のひらを擦り合わせました。そうして、彼は去っていくのです。
 ひとりで取り残された私は、ようやく乙女の蛇睨みからもなにからも解放され、一塁手である彼へ戻ることができます。手を握りしめ、心の平静がやってきたと安心しました。
 おや? しかし、不思議なことも起こるものです。彼を見ても、なぜだかマウンド上の鈴本くんに視線がこぼれてしまうのです。なぜ? 私は今、あんなにも好きだと思った彼が、好きだと思っている野球をしているというのに。揚羽蝶がヒラヒラと視界の端で漂うように気になってしかたがない鈴本くんに、困惑がいよいよ窮地を迎えます。
 鈴本くんに陶酔しきっており、全身恋愛中である彼女たちは、どうしてそうなったのですか。彼のどこが好きなのですか。好きになるきっかけなどあるのですか。恋に狂うとはどういうことですか。恋とはなんですか。なんですか、夏のラムネのような居ても立っても居られぬこの想いは!
 頭をのたうちまわる言葉の淡い羅列が暴れては雲散霧消、すたこら逃げていきます。尻尾すら掴ませてはくれません。私はこんな感情を知らないのです。助けてと縋るように一塁側の彼を眺めました。そして、滑り落ちた言葉がひとつ。
「うそ、です」
 虫の息ほどのユーモアを振り絞った私の口癖です。二階から目薬を垂らした方がまだ効き目のある秘薬、私はこの奥の手を使います。しかし、普段から出てくるおふざけとは異なり、どこかからシュルルと顔を出す物物しさに息を呑みました。
 そして、マウンドに立つ鈴本くんが一石を投じるように一球を投じたのでした。

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