短編

□良心は呵責すべきか
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 小さなアパートのさらに小さな一角、お世辞にも真新しいとは言い難い木造のドアの先。俺と彼女はそこにいた。象牙色の壁紙は隅がところどころ薄れていたが、この黒髪の少女がいるというだけでひどく安心した。オモチャをそのまま大きくしたような小洒落た木のテーブルも、茶の椅子も、俺にとっては微笑ましいものに見える。
 彼女とは高校からの付き合いである名字名前のことだ。今や、その出会いの舞台である高校を卒業し、俺は埼玉西武ライオンズ、名字はイレブン工科大学に路を進めたところである。彼女と逢瀬の時間を作ることは路上で四葉のクローバーを鵜の目鷹の目で探すことと同義であり、俺は砂と小石らによるひしめきから助けを求める幸運の証を血眼で追いかけていた。そうして、幸運は好機に転じたというわけだ。
 と、願ってもない好機によって恋人同士の甘酸っぱい背筋がかゆくなるぬるま湯に浸かろうとしたものの、彼女の様子がおかしい。ため息をついた名字。心ここに在らずである。
 交際している身としては、彼女には可愛らしく笑っていてほしいものだ。いいや、もちろん、落ち込んでいる彼女も俺の贔屓目だらけの眼鏡にかなえば魅力的なのだが、前者が何よりの願いである。静かに髪を耳にかけた儚げな和風女性を放っておくという選択肢はそもそも存在し得ない。
「どうした」
「えっ」
「なにかあっただろ」
「そんなことは……」
「うそが下手だな」
「うん……」
「話せないことか?」
「そういうわけじゃない、と思う」
「じゃあ話してみればいいじゃないか」
「あまり友沢くんには話したくないことなんだけどな」
「はあ?」俺の眉が不機嫌に歪んだ。
「いえ、悪い意味じゃなくて……」
「俺に話したくないと言われると、いやでも悪い意味だと思うだろ」
「そ、そうだね。ごめんなさい」
「別に謝らせたいわけではない」
「……そっか」
「まあ、話してみたらどうだ」
「ううん、そうした方がいいかな」
「半身見せておいて隠されても困る」「それもそうだよね」
 名字がコクリと頷いた。
「じゃあ、あの、笑わないで聞いてね」
「笑えるほど上機嫌でもない」
 彼女は困ったような愛想笑いを浮かべ、口を開いた。
「あのね、大学で男の子の友達がいて」
「ああ」
「すごく明るくて、人懐っこくて、私も仲良くさせてもらってる人で」
「ほう、名字が世話になっているのか」
「あ、えっと、その人はみずきのことが好きなの。それで、あの、私とも仲がいいのだけど、その人に言われちゃったの」
「なにを」
「私は地味だって。もっと派手に遊んだらどうだって」
「もっと、派手に……?」
 それが金魚鉢で鯉を飼うような想像しがたい話であった。黒瞳に黒髪、薄めの唇に小さな鼻、大和撫子という四文字がからみつくほどに似合う乙女、性格までも小野小町のような彼女に派手さを加えろなど、現代社会に小野小町が十二単を引きながら闊歩せよということだ。これで振り返らない現代人がいるのなら、そいつも平安からの回し者である。ついでに言えば、小野小町の性格など俺の知識の範疇にはない。
 とにかく、なに馬鹿なことを言っているのだろう。理解しがたい。咀嚼できない。なおも彼女は黒々とした威厳も風格もない眉を下げていた。そして、俺の目を見つめたのだ。
「私、地味……かなあ」
「……まあ、地味だな」
「うう、だよねえ」
「あまり気にしなくていいと思うぞ」
「で、でも!」
「……はあ、名字は名字だろ」
 こちらがため息をついてしまった。
「そうかもしれない、けど……」
「けど?」
「けど、変わりたいの!」
「…………」
 さらには絶句してしまった。開いた口が塞がらない。
 輝く瞳に宿ったのは出生も一切不明無名迷子の情熱であった。轟々めらめらと燃え盛るのは明後日の方。絶句はやがて、抱えるほどに頭を重くした。
 炎なき場所に煙は立たぬはずではないのか。一切不明無名の男が名字を焚きつけたとでもいうのか。ならば、憎むべきは得体の知れぬ男のことであり、迷子に意気込む間抜けな彼女ではない。
 余計なことをしてくれたと黒塗り顔の素性も知らない男に唾してやった。
「名字」
「なに?」
「お前、地味を脱してどうするんだ」
「どういうこと?」
「そこまで地味なところを変えようとする理由があるんじゃないのか?」
「ええと」
 彼女が目を泳がせる。
「みずきが……」
「橘?」
「みずきが大学であまりにもモテるから、そんな魅力的な子に私も近づいてみたかったのっ」
 そして、早口でまくしたてた。
「お前……魅力を磨きたいのか?」
「それは……うん、そうです」
「なぜだ」
「なぜって、さっき言ったとおりだよ」
「モテたいのか?」
「モテたいってより、その、友沢くんのため……」
「はあ? 俺は頼んでないぞ」
「そうじゃなくて! 友沢くんとはなかなか会えないから、その、他の人に目移りしないように……もう、こんなこと言わせないでよ」
 徐々に細くなる声の末、いよいよ名字はテーブルに伏してしまった。
 俺はテーブルに流れた黒髪を眺める。言われてみれば、艶やかであったものがさらに艶を重ね、艶々しくなったような気がする。そんな気がするような気がする。
 女の努力とは俺たちプロスポーツ選手ですら舌を巻くものであり、さらによくわからない。肌の潤いだかなんだかのためにキュウリの薄切りを顔に敷いている女をテレビで見たことがある。あれには、数週間キュウリを口にすることへの抵抗を覚えた。まったくもって支離滅裂な努力である。それは努力とは言わないのではないかという溜飲はひとまず飲み込んでおく。
 話を戻そう。このような胡散臭い努力を彼女もしているというのか。キュウリがまたしても食物としての尊厳を失うのだと思うと、涙鼻水を垂らさずにはいられないのだ。



 後日、チームメイトに彼女の話を交え、女の不可解な行動の溜飲をそっと吐き出した。すると、彼らは揃いも揃って「お前、なにも言わなかったのか!?」と猛り狂った。「いじらしい子だなあ」「ほめてやればいいものを」「彼女がかわいそうだろ!」「天然な男と付き合うと女の子が苦労するのか」空に唾を吐き、自分にかかったかのようであった。

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