短編

□騎士よ既往咎めず
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 僕たちが高校野球の祭典であり夢であり元高校球児たちの麦酒に添える極上の肴である甲子園球場で試合をすることを断行せんと果敢雄々しく練習に励んでいたパワフル高校から、五、六キロメートルのホームラン何十本分ほどしか距離のない雑踏の先に覇道高校はあった。
 覇道高校とは、僕たちの地区で覇者的存在の強者である。隣町でここを紹介せねば他に紹介すべきは隣町名産のただの砂、ただの石ころにただの雑草だろう。
 さて、強さゆえの知名度が一本の道のように甲子園球場へ続いている覇道高校に待ったをかけるのが僕たち、パワフル高校のなすべきことだ。
 そうして、筋力トレーニングの最中であった。腕立て伏せを炎天下で行っている僕はもしかするととんでもない馬鹿野郎なのかもしれない。僕の背面全てに満遍なくかつ集中的に注がれる日差しは汗となって腹や髪から垂れ落ちてきた。服はすでに一滴の雨粒すら吸収する余地がないほどに濡れている。徐々に湿気を帯びる体は気持ちの悪いものだった。一方で、突然の物騒な積乱雲から雨が降るがごとくグラウンドの土に僕の汗が勲章のように斑点を作ることへ快感も覚えていた。ほら、とんでもない馬鹿野郎かもしれない。
 そんな馬鹿野郎に声をかける人がいた。誰かが僕を覗き込み、上から影がかかり、僕の背中は日差しの脅威から守られる。勇敢なことに女の子であった。短い髪一本一本まで僕の背を日陰で覆う騎士と化した彼女はやけにカッコよく見えた。かくいう女騎士は非力なマネージャーさんである。
「星井くん」
「な、に」
 かくいう僕は腕立て伏せの最中である。絶え絶えに返事をした。
「お客さんが来てるよ」
「お客さん、だって?」
 僕は立ち上がった。
「そうそう。なんか怖そうな人」
「怖そうなお客さん?」
「星井を呼べ! ってものすごい形相で迫って来てさあ」
「ううん、誰かな」
 僕への客人だというのに、僕すら心当たる節がない。彼女は困ったように眉を寄せてから、ひとまず僕を背で案内した。日差しをもろともせずに両手を振って歩く彼女の背中はすこぶる大きく見えた。女騎士のようだった。
 その後を着いて歩く僕は自他そして天すら認める温厚な性格だ。怖そうなお客さんとは一体全体どこのどなたが何用だろう。
 マネージャーである名字さんと共にグラウンドを出ると、そこにはかつての戦友がいた。木場だ。木場は高校野球界隈で隣町を占拠するエースピッチャーだった。隣町名産のただの砂高校、ただの石ころ高校、ただの雑草高校ではない。覇道高校だ。
 木場は赤鬼のような顔をしてひどく苛立っていた。僕はその怒りに覚えがあった。かつての戦友であったからだ。
「星井、テメェ! こんなところで何してやがる!」木場が猛然と掴みかかる。
「何って……もう、転校したんだから木場には関係ないよ」
「ちょっ、あなた! 星井くんになにをするんですか!」
 名字さんがあわてて僕と木場を引き離した。
「とにかく、帰ってくれよ」
「ふざけんな! こんなところに逃げ込みやがって、この腑抜野郎!」
「木場には関係ないって言ってるだろ」
「お前と俺でてっぺん取るって言ったじゃねえか!」
 僕は唇を噛んだ。
「野球の才能に恵まれた木場に何がわかるんだ。いくら練習しても君には敵わない」
 そう言ったとたん、木場が身体ごとぶつかってきた。
 気がつくと彼女は放り投げられ、僕は押し倒されていた。
 木場が馬乗りになって首を絞めてきた。憤怒の形相が鼻の先にあって、木場から滴る汗が降りかかってくる。
「テメェ……それ、本気で言ってんのかよ」
「本気、だよ」
「そうか。見損なったぜ」
 しかし、木場に対して怖いとは思わなかった。むしろ、心の隅の暗がりから急速に燃え広がって、僕自身を変えてしまうような感覚がした。これは憤慨だ。
「木場に……お前に、なにがわかる! 才能も努力も人望もなにひとつ勝てなかった僕の気持ちが、お前にわかってたまるか!」
 右腕を伸ばし、僕は彼のこめかみを殴りつけた。初めて人に拳を向け、渾身の恨みをぶつけた。首の解放感となんともいえない手ごたえがあった。呻き声が聞こえた。
 すると、僕の頬にもなんともいえない手ごたえがあった。見れば、親指を軸に四本の指ががっちりと包まれた拳が目前にある。満腔の憎しみに染まった硬い拳であった。
 その拳を目にするやいなや、僕の頬は反射するがごとく痺れた。歯を食いしばらなければ、涙が出てしまいそうな激痛だ。
 人から殴られるということはここまで痛みを伴うことなのか。僕はこのなんともいえない手ごたえに戦戦慄慄の汗を流し、木場から離れた。
 木場は立ち上がり、僕に侮蔑の眼差しを送りつけた。
「他人と比較することでしか野球できない野郎なんだな。テメェは」
 僕が殴りつけたこめかみを押さえながら木場は背を向ける。帰るのだろうか、ようやく帰ってくれるのだろうか。僕は燃え広がった炎がやっとのことで鎮火されるのだと思った。
 しかし、木場が去ろうとした隅から黒い影が飛び出してきた。それは僕の背中を日差しから守った経歴もある偉大な影である。
 顔に砂をつけた名字さんが木場を引き止め、今しがた僕がされたように木場へ掴みかかった。馬乗りにはならないものの、名字さんは僕らより細い手足で幼いライオンのように木場に襲いかかる。
 彼女の前足が木場の肩を引っ掻くと、木場は容赦なく彼女を路上に叩きつけた。
「なにしやがる!」
「それはこっちのセリフよ!」名字さんはすぐさま立ち上がった。「星井くんに何の用があるのかと思いきや下らない理想の押し付けね!」
「なんだと……マネージャーがえらそうにするんじゃねえ!」
「あなたこそわかったようなこと言うのね! どんな背景があれど、星井くんは努力しているし、努力している人を咎めることはできない! 星井くんはあなたみたいな人には負けないわ!」
 そうして、名字さんは僕を背に隠す。彼女を盾にする僕にとって、その後ろ姿はまさに女騎士と呼ぶ他なかった。男である僕には敵わぬ丈であれど、女は度胸に愛嬌である。彼女には度胸も愛嬌もあった。
 思わず鎧袖一触を期待してしまう美しくしなやかで気品あふれる居合に息をのんだ。
 そうして、僕と同じ男がもう一人いた。木場だ。木場は高校野球界隈で隣町を占拠するエースピッチャーだった。返事に窮すると踵を返すクセのあるエースピッチャーだった。
 木場は「野球でわからせてやる」と吐き捨て去っていった。自分が弱いものいじめでもしているような気分になってしまったのだろう。彼女には小さいながら強大な敵に噛み付く勇気があった。
 僕は強大な敵から逃げ出した。彼女は立ち向かった。それがこの結果だ。僕がべらぼうに弱いだけじゃない。彼女がべらぼうに強いだけじゃない。彼女は筆舌に尽くせぬほど勇敢であった。
 彼女になりたいと思った。
 そして、あわよくば彼女を超えたいと思った。こうして、彼女は僕の目標となった。
 人を目標にしたことはある。例えば木場だ。彼はずっと僕の目標であった。
 だが、彼女を目標とした時、木場に感じた悔しさややるせなさはまるで湧いてこなかった。白紙の銀世界に初めて足跡をつけるような胸の高鳴りがあった。
 なぜか。それは彼女を超えた場所で見ることができると僕は確信した。

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