短編

□リキュール・ア・ラ・モード
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「友沢くうん、おかえりぃ」
 俺は愕然とした。何が起きた? 泥棒か? 空き巣か? いや、ドアを開けたと同時に、彼女が飛びついてきただけだ。
 「だけ」とは語弊がある。俺が知る名字名前は、易々と人に飛びつく動物本能があるような女ではない。むしろ、橘に飛びつかれることが多い女だ。
 しかし、現に彼女は俺に腕を絡め、清潔な香りがする髪を擦り付けながら甘えてきたというのだ。目の前の小動物に「なんだこの愛くるしい生きものはッ」と混乱せざるを得ないわけだが……これはどういう状態なのだろうか。俺は彼女のつむじを直視できず、背中に回し損ねた手が行き場を失っていた。
 愛くるしい生きものは、俺の手を引いて、自ら黒髪の頭に乗せた。その全世界を平和にしかねない愛らしさに蒸発しそうになったので、彼女の頭をしきりに撫でて耐えた。彼女はにへらとだらしなく微笑んだ。
 俺の知る彼女とは違う。
 この女は名字名前か? というより、甘い雰囲気が漂っているこの場は俺の家か? そもそも、蒸発するほどに幸福な世界は本物か? 
「名字だよな……?」
「もう、何言ってるの。あなたの名前ですっ」
 あわや口付けするか否かの至近距離で彼女は小首を傾げた。十云年と生きてきて、彼女に生殺しを食らうのは少なくなかったが、ここまで彼女が女の武器を振りかざすことは初めてであった。「フゥッ」と雄らしい鼻息を吐き出した。
「友沢くぅん……」彼女の視線がどうも甘たるくて、頭がぐらぐらする。
「キス、して……?」
 明らかに普段の名字とは違う。俺の知る名字名前は、易々と人にキスをねだる女ではない。だが、意中の女にねだられると弱いのが男である。あくまで一般論だ。俺が悪いわけではないのだ、断じて。
 そして、意中の女の願いは叶えてやるのが男たるものだ。あくまで一般論だ。俺が不埒な欲にかき抱かれたわけではないのだ、断じて。そう前置きをしたところで、俺は彼女の言う通り、赤い唇に己のそれを重ねた。洋菓子の味がした。何度でも言うが、名字に言われてやっただけだ。俺が彼女に対して、並ならぬ情欲を抱いているからではない。俺が悪いわけではないのだ、断じて。
 すると、彼女は俺の想定とは反し、眉を寄せて不満そうな表情をして見せた。彼女の願いを叶えたというのに、へそを曲げた顔で俺を見るのだ。相変わらず、唇が触れ合いそうなほど距離は近いままだった。
 彼女は頬を膨らませた。俺は再び頭を抱え「なんだこの愛くるしい生きものはッ」と悶えた。しかし、どんなに愛くるしい生きものを目の当たりにしようと、名字の前で醜態を晒すことだけはあってはならないのだ。俺は雄らしい鼻息を吐き出し、己を律した。
「もうっ」
「どうした」
「私のこと、好きって顔してない……」
 俺は愕然とした。なぜなら、滾る名字への愛やら欲やらを煮詰めた混沌に、彼女自身が気づいていなかったからだ。これ以上を欲しがるなど傲慢だ! 我儘で、利己的だ! なんて愛くるしいんだ! 俺の方がくるしくなってしまった。
 子供のような可愛らしい我儘を言う姿は妙に新鮮だった。いつもは落ち着いた柔らかな言動と行動で、橘を律する彼女とは雲泥の差であった。いわゆるレアというやつだ。
 だから、この好機を逃すわけにもいかなかった。我儘な彼女にあやかることで、俺は自分の責任を逃れようとしたのだ。そうだ、名字がキスしろと言ったのだ。あわよくばの醜欲が顔を出し、彼女の身も心もひん剥き、独断専行することになろうとも、仕方がない。
 そう思うと、下心に黒い羽が生えたような悪魔的な気持ちになった。
 俺は彼女の顔を上げさせ、唇を狙った。
「名字」
「なあに?」
「キスして欲しいんだろ」
「うんっ」
 吸い込まれるように口付けを繰り返す。過去、彼女の腕がねっとりと俺の首に絡むことがあっただろうか。いや、名字はそんな破廉恥な女じゃない。それほどまでに純情で、静謐な娘なのだから、ほら、その、彼女が俺に飛びついてゴロゴロ甘えてくる姿にまんまと射止められたことも無理はない。
 彼女の足が震えているような気がした。なるほど。おおよそ、ベッドにでも行きたいのだろう。彼女の両腕に絡められたご都合主義な頭で考えたことは妙案であった。
 雀が頭を振る程度の震えに気がついた俺は、おそらく名字状況変化選手権の世界的権威に違いない。
「名字、疲れているんだな」
「ううん、友沢くんが来たからへいき」
 彼女が舌足らずに甘えた。これには世界的権威も「クッ」と煩悶した。
「……寝室に行くぞ」
「ねえ」
 頬の赤い彼女が顔を近づける。
「もっと、私のこと好きってキス、して……」
 茹だった名字の顔は形容しがたい表情だった。蠱惑的で、見ているだけで我を失いそうになる。
「それは、あれか?」
「舌、入れるの……してほしいのっ」
 名字が小さく喘いだ。彼女の言葉が途切れるか否かのところで要望通りにしてやったからだった。
 とはいえ、彼女の責任だ。ここまで煽っておいて、素知らぬ顔をされてはこちらが困る! これくらいは当然だと言わんばかりに彼女に深く口付けた。
 触れた唇から、舌で彼女を全て絡めとる。彼女の舌はぬるりとした温かさがあり、俺が触れると動きを止めた。彼女の穏やかさを連想したので、興奮した。舌まで愛嬌のある彼女に、さらに興奮した。



 その、なんだ。当然、昨日の夜は長かったうえに、彼女が肉食獣のように積極的だったわけだが、あの彼女は酒に酔っていたらしい。橘のストレス発散に付き合ったとか、飲まれてしまったとか。
 俺は、橘にプリンを捧げなければならないようだ。

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