短編

□妻が高校生になりまして
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 俺が住む市内にある地下のさらに地下、そんな場所に研究室があった。もちろんだが、人など寄りつかず、おそらく見向きをするのはモグラくらいであろう地底の研究室。さすがの俺も興味などなかったが、そこで俺を呼び出した女医がいた。
 猪狩カイザースの三番打者を務める今となっては、もう十年近く前の知り合い、それが女医の正体だった。高校時代に世話になった加藤理香先生のことだ。
 加藤先生は類稀な美貌と体つきで、当時高校生であった男たちを見事手玉に取った。彼らの背景には、いつも加藤先生の手のひらがあったといって過言ではないほど、彼女は男子生徒を釈迦のように魅了した。加藤先生の指示には、やさぐれ男も陰険男も素直に頷き手伝いやら召使いやらに姿を変えたのだ。釈迦よりも末恐ろしい女性である。俺は決して、彼女を敵に回したくはない。
 彼女の隠れ家のような研究室へ行くには、明かりひとつない階段を、百段近く下る必要がある。俺はベルトに巻きつけた懐中電灯を頼りに、階段を降りていった。地底へ降りるにつれ、土臭さが増していき、モグラの気持ちを味わうこととなる。
 地獄への入り口かと思わしき、ものものしく大きな鋼の扉を開けると、白く高い天井が目に入った。それまで暗闇を彷徨っていたのだから、目がチラチラと瞬く。我慢できずに目を閉じ、懐中電灯を手繰り寄せ、その灯火を消した。
 ようやく目を開くと、巨大なテーブルの上に、波線を映し出すコンピューターが数台、手術道具なのか拷問道具なのかわからないドリルやらなにやらが十数個、その他もろもろ研究者が喜びそうな細々とした銀製品がズラリと並んでいる。また、隣には固そうなベッドとパイプ椅子が立てかけてあり、ベッドには小さなライトがついていた。人造人間を作り出す手術室か、ここは。
 そして、ベッドには、黒髪の少女が瞳を閉じて横たわっていた。ついでに、俺の母校の女子制服を着ていた。
「こいつ……」
 俺は、その場から動けなくなった。
 横たわっていた少女は、驚くほど自分の妻に酷似していたからである。しかし、今の妻よりも幼い。言うならば、出会った当初の妻に酷似していたのだ。
 彼女は固そうなベッドの上で、死んだようにしていた。今にも人造人間に改造されそうだった。
「友沢くん。落ち着いて聞いて欲しいのだけど」
 加藤先生の声色が低く語りかけてきた。
「ここにいるのは名字さんよ」
 俺は相変わらず動きを止めていた。その衝撃といえば、筆舌に尽くし難い。
 俺と彼女は夫婦としての契りを交わしてからおよそ一年ほど経っている。少年少女時代など遥か昔の青春なのだ。
 それなのに、ここにいる彼女がその遥か昔の人間だなんて、誰が信じるんだ。
 しかし、年齢を悟らせない美人は、髪をかきあげながら言った。彼女は妻である友沢名前、旧姓名字名前だと。そうしてこう告げた。
「ま、友沢くんが信じないなら、猪狩くん辺りに話そうと思ってるわ」
 俺は、この女性を敵に回したくはないと思った。ついでに、猪狩さんに彼女の話を回したくはないとも思った。
「信じていないわけじゃないですけど、本当なんですか」
「こんなこと、冗談では言わないわよ」加藤先生は人差し指の爪で、横たわる彼女の頬を撫でた。
「……それもそうですね」
「でしょう? ああ、でもね、ちょっと問題があって」
「問題ですか?」
「ええ、名字さんは高校生一年生のころに戻ってしまったみたいなの。理由はわからないから究明させていくとして、今後どうしましょう?」
「どうするとは?」
「彼女、記憶もすべて当時に戻ってしまったようなのよ。さっきまでは目を覚ましていたからいろいろ聞いたのだけど、あなたとお付き合いすらしていない様子ね」
「な……」
「あ、そうそう。これ。名字さんが混乱するから、結婚指輪を外しておいたわ。ひとまずあなたに渡しておくわね」
「なっ……」俺は、再びその場から動けなくなった。
 彼女が俺とは付き合っていない認識をしているということは、夫婦関係を破棄されたようなものだ。今ここで、彼女が左手にはめていた指輪がただの鉄クズになったのだ。
 そして、無情にも加藤先生から彼女に送った人生最大の告白の結晶が返された。手のひらに乗った鉄クズを眺めていると、彼女と離婚した気になり、握り潰したくなる衝動がふつふつとわきあがる。しかし、腐ろうが鉄クズとなろうが、これにはそこそこの値段がした。貧乏性が俺の握りこぶしを解いた。
「友沢くん、すごい顔してるわよ。この世の終わりみたいな、ね」
「さして変わらないです。……はあ」
「はあ……」
 俺と加藤先生は、二人してため息をつく。
「しかたないわね……。名字さんを困らせることにはなるでしょうけど、友沢くんとの関係を伝えた方がいいかしら」
「……そうさせてください」
「あら、名字さんが困るというのに。案外、友沢くんも勝手なのねえ」加藤先生が意地悪く微笑む。
 勝手もなにも言ってられるか。唯一無二の存在、名前が自分の妻になるか否かが脅かされているのならば、手段を選ぶ猶予もない。
 俺は加藤先生を無視し、勝手に立てかけてあるパイプ椅子を名前の元へと動かした。
 簡素なパイプ椅子に座ると、彼女の顔がよく見える。
 名前は色白だが、ライトに照らされて、ますます色白に見えた。閉じられた目を舐めるように眺めていても、睫毛ひとつ動きもしない。額にかかる黒髪と、小さめの鼻の影が、とても愛おしく思えた。
 そして、綺麗で、神聖だった。いつだって、名前はどこか清らかで聖なるものを醸し出していたが、その比ではなかった。「この少女は、地底に落とされ、息絶えた天の使いだ」と言われれば、微塵も疑わず信じるだろう。それほどまでに、「本当は死んでいるのではないか」と錯覚した。真っ白で、血の気なんて人間くさいものとは無縁なように見えた。
「……名前は、生きてます、よね」
「なにをバカなこと。友沢くんらしくないわね」
「いや……。綺麗だな、と思って」
「……あなたねえ。そういうのを、世間ではろりこんと言うのよ」
「名前にだけです」
「ろりこんじゃなくてぞっこんね。手に負えないほどの愛妻家だわ」
 加藤先生は首を傾げながら髪をかきあげると、コンピューターの前にある椅子に腰掛け脚を組んだ。
「名字さんのこと、とりあえずあなたに預けていいかしら。彼女にはまた来てもらうことになるけれど、ここでは生活できないもの」そうして、髪を耳にかけた。
「わかりました」
 早速、彼女を横に抱き上げる。膝裏と背中を持ち上げると、今とほとんど変わらない重さがした。やはり、この少女は名前なのか。すると、自然と顔が綻んでいく。
 よほどだらしない顔で彼女を見ていたのか、加藤先生が冷ややかに「友沢くん」と呼んだ。
「刺激しちゃだめよ。一番困っているのはおそらく名字さんだもの」
「ええ、わかっています」
「わかってなさそうね。単刀直入に言えば、夜の営みは絶対にダメよ」
 思わず黙り込んだ。ついでに、彼女を抱く腕がピクリと揺れた。
「まずね、原因不明とはいえ、名字さんは16くらいよ。そもそも違法だわ」
「……ええ、わかっています」
 わかっているが、再びため息をつく。
 こいつには、ため息もつきたくなるだろう。普段、プロ野球選手として、遠征等々でなかなか時間を作れないんだ。家に帰れる時は、名前が作る飯と、名前との時間を新婚気分で楽しんでいたというのに。俺のやり場のない思いは、いったいどこに投げつければいい。
 とにかく、高校生になった名前を抱えて、俺は加藤先生の研究室を後にしたのだ。

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