短編

□妻が高校生になりまして 2
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 研究室を出ると、耳が曲がるほどに蝉の鳴き声が聞こえた。季節は夏。人類蒸し焼き計画でも始まっているのか、アスファルトが日差しを照り返し、まるで太陽をそそのかしているようだった。おだてられた分だけ気温が上がっていくのだと思うと、くらりとする。おかげで、蝉の鳴き声には耳と頭が痛くなった。
 誰もが飛び起きる目覚まし時計が鳴り続けるというのに、名前は相変わらず眠っていた。彼女を抱いている腕すら、汗で滲んできているのだ。さぞかし居心地が悪いだろう。しかし、彼女は汗ひとつかかない。
 俺は、名前が本当に生きているのか心配になった。こういうのを、ろりこんと呼ぶのだろうか。



 彼女を寝室のベッドに横たわらせた。この部屋は、普段から彼女自身が掃除を怠らないため、ほこりはおろか髪の毛ひとつ落ちていない聖域である。
 俺と同じ年齢の彼女からすれば、毎日清潔に保ち、眠ることを許された聖域だろうが、今の名前からすれば、眠ることを許されない拉致監禁現場のように思うだろう。
 とにかく、彼女の瞼がふるふると揺れたのち、目覚める瞬間が恐ろしい。思わず、一歩後ずさった。その時、俺は名前にとって監禁犯になるのだ。後ずさったまま、切ない気持ちになった。妻に犯罪者を見る目で見られると思うと、心がすりおろされる気分がした。
 さて、彼女に犯罪者を見る目をされないためには、初手が肝心だ。名前になにを言おうか。
 当然、まずは身の潔白を証明しなければならない。俺は暴漢ではなく夫であることをこの一手で示さねばならないのだ。そうなれば、夫婦の阿吽の呼吸と呼ぶべき阿吽の会話をすればいい。すると、今日の天気を聞くように話せばいいのだ。そうだ、息をするように話しかければ間違いないだろう。
 「起きろ、大事な話をする」いや、待て。これではいたずらに恐怖心を煽るだけだ。
 息をするように話しかけては、彼女が「息をすれば、どんな目に遭わされるか!」と口鼻を押さえてぶるぶる震えだすだろう。これは棄却しよう。
 それならば、単刀直入に俺と彼女の関係を打ちあけよう。そうだ、名字名前は俺と結婚し、友沢名前として生涯を共にすることを誓った。これが真実だ。真実を伝えて悪いことなどない。
 「お前は高校生に戻ったらしいが、俺の妻だ」しかし、自分の気持ち悪さに吐き気がした。ついでに恥ずかしさにかあっと体が熱くなった。ラブロマンスらしいセリフだが、一歩間違えれば、気が違えていると思われる。「なんなの、この人。私の夫なんて名乗っちゃって……気持ち悪い」腐った虫の死骸を見るような目をした彼女が浮かんだ。腐った虫の死骸にはなりたくない。結局は、ますます恐怖心を煽るだけでなく俺の尊厳も焼き切れる発言だろう。これはよくない。
 そうして苦悩し、頭を抱えたり手を握ったり解いたりを繰り返していると、彼女の瞼がふるふると揺れたのち、目を覚ました。
 俺は、二歩後ずさった。
「う、ん……」と寝ぼけた声がして、薄く目を開いた名前と目が合う。このままでは、彼女に不審人物だと間違えられる! 胸に不知火が通るかのような不穏さが襲い、俺は「かッ」と声にならない呟きをこぼした。ついでに、考えていた阿吽の会話もラブロマンスも霧消した。俺にできたことは、俺を見つけ、丸々としていく彼女の瞳を凝視することただ一つだった。
 「……あ」彼女がゆっくりと起き上がった。
「あ、えっと……」声も香りも、名前そのものだ。
 彼女は迷子のようにあわあわと辺りを見渡した。
 そして、俺を見ると「はっ」と何かを思い立ち、ピョコンと正座をした。その様がなんとも可愛らしく、見惚れた。
 彼女は俺を見て、恥ずかしそうに呟いた。
「えっと、その……ここは、友沢くんのお家ですか?」
 頷くことしかできなかった。
「じゃああなたは、友沢くんのお兄さん……!? ご、ごめんなさい驚かせてしまって! わ、私、友沢くんのクラスメイトの名字名前といって……なんというか、と、とにかく怪しい者じゃないんです! ごめんなさい!」
 その慌てて頭を下げる様子からなんともいえない瑞々しさを感じ、「若いな」と思った。
 ついでに、彼女との出会いをやり直しているようでムズムズとした。ムズムズとしているのは主に口元だった。「はは」と気持ちの悪い笑みが出そうになるのをこらえる。
 しかし、問題があった。彼女は俺のことを架空の兄だと思っているらしい。確かに、交際前では俺に兄がいないことも知る由がない。
 それに、大して怖がっているそぶりもない。取り立てて言うなら、申し訳なさそうにしていた。正座と共に正した姿勢が前のめりで、今にも頭が下がりそうだ。
 そんな彼女を見ていると、大の大人が怯えていることが不似合い甚だしく感じる。彼女の可愛らしさに思わず笑いそうになる口元をこらえ、噛み締めた。
「名前……じゃない、名字」
 彼女はぱちくりした。
「……声、そっくりですね」
「それは……まあ、俺が友沢亮だからな」
 彼女は、再度ぱちくりした。
「あ、はは……。何言ってるんですか。友沢くんは私のクラスメイトで……」
「こんなに老けてないって?」
「い、いいえとんでもないです!」
 まずい、怖がらせたか。このままでは、彼女がベッドへと逃げてしまう。
「とにかく、俺は兄でもなんでもなく名字が知る友沢亮なんだよ」極力優しく話したつもりだ。
「も、もう、そんなのにひっかかりませんよ」
「これが冗談を言う顔に見えるか」
「……お兄さんもポーカーフェイスなんですねっ」
 名字の声が震え始める。
「俺に、兄はいない」
「……本当ですか?」
「ああ」
「……し、信じがたいです」
「無理もない」
「……あの、その、おいくつですか」
「26だ」
「……うそですよ、ね?」
「嘘じゃない」
 彼女は渋い顔で考える。
「じゃあ、こうしましょう」
「……はは」
「あの、なにか?」
「いや」
 名前が眉間にしわを寄せて考え込むとは、なかなか見ない顔だった。思わず笑ってしまった。
「もう、聞いてくださいね」
「ああ」
 よく表情が変わる、と思った。
「私が知っている友沢くんの質問に答えてください。それに答えられれば、信じます」
「なるほど、それは妙案だな」
「ふふ、とっておきを出題しますから、覚悟してくださいね!」
 正座と共に正した姿勢が前のめりで、今にもとっておきを出題しそうだ。
 そんな彼女を見ていると、自分がすでにいい歳の大人になってしまったことを感じる。同時に、彼女がまだ高校生であることを自覚した。この世のカワイイものを煮詰めてできた効果音やら雰囲気が、彼女の周りに浮かんでいる。あどけなさにまたもや笑いそうになる口元をこらえ、噛み締めた。
「では、問題です」彼女は目を輝かせた。
「ああ」
「席替えで、友沢くんはある人の隣の席になって、ものすごく、ものすっごく嫌がられました。そのお隣さんとは誰でしょう?」
 いつの話だ。
「……高校一年の時か?」
「はい」
「橘だろ」
「せ、正解! そう、みずき!」
 名前は、微笑んで橘の名前を呼んだ。本当に正解するとは思っていなかったのか、高揚した頬が赤らんでいた。
「じゃあ二問目です」彼女は、楽しいものをこれでもかと詰め込んだように頬を膨らませた。
「ああ」
「みずきと私が出かけている時、ばったり友沢くんと出会ったことがあります。それはどこでしょうか!」
 いつの話だ。
「……高校一年の時だな?」
「もちろんです」
「名字と付き合……く、クリスマスより前か?」
「今は夏なので、クリスマスはまだですが……クリスマスがどうかしましたか?」
「気にするな」
 遥か彼方にあろう記憶を辿る。
「……ショッピングモール、だったか」
「正解です! すごい!」
 パァッと喜ぶ彼女。
「じゃあ、難しい問題を出します」
「ああ」
「猪狩くんとみずき、成績がいいのはどちらでしょうか!」
「野球成績も学習成績も猪狩さんだな」
「わあ、みずきが怒りそうな回答……。でも正解です」
 今度は眉を下げ、橘を宥めるように笑った。これだ。名前といえばこの表情なのだ。彼女と出会って十年ほど経った今もなお、俺の煩いの大半を占めるこの表情、これがたまらなく好きだ。もしも俺の手元にカメラがあるならばすかさずシャッターを押すだろうが、あいにく持ち合わせていないので、網膜が擦り切れるほど彼女の困り笑いを焼き付けた。
 自分が愛してやまないものが出会ってから変わらないということは、どことなく浮き足立つことだ。俺はベッドに転がりたくなる思いに身じろぎした。
「本当に……友沢くん、なんですね」
 ベッドに寝転んで彼女の愛らしさに悶えてしまいたい俺とは裏腹に、彼女は正していた足を崩す。俗に言う体育座りとなった。慎ましい体育座りと、背中を丸めて慎ましく小さくなったわけだが……。制服を着ているというのになかなか大胆なものである。
 歳のせいで鳴りを潜めてはいるものの、瑞々しい太腿にはくらりとした。なので、再び網膜が擦り切れる思いをした。
 なるほど。歳のせいにしたくはないが、名前であれば、俺はろりこんでもなんでもなれるのか。不名誉なのだろうが、背筋が伸び、胸を張った。
 すると、彼女も背筋をピョンと伸ばした。
「あの!」
「ん」
「そしたら、疑問に思うことが一つあるのですが……」
「なんだ」
「私は、どうして友沢くんの家にいるのですか?」
 俺は固まった。
 固まったまま、先ほど消えた阿吽の会話とラブロマンスが顔を出す。
「……友沢くん?」
 ここまで上出来なほどに会話ができている。それはひとえに彼女の人柄なのだろうが、それが冷ややかなものに変わるのだけは避けたい。どう答えたらいい。どう答えたら、名前が納得してくれるのか。
 あれやこれやそれやと考えるものの、すんなり口から出そうな、気の利いたものはなかった。一向に閉口したままだった。
 ひとつ、息をついた。
「……今から言うことは、妄言でもなんでもない事実だからな」
「は、い?」
「名字、お前は俺の妻なんだよ」
 彼女は、「は」ともらした。

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