短編

□夜明けの一歩を
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 青い空の下に立ち並ぶビルの山々、その腰くらいの高さにいる飲食店の数々、忙しなく携帯に没頭しながら思い思いに行き交う人々、そしてすれ違い様に私とぶつかりそうになり、舌打ちされ云々。
 休日の新宿駅に私はいた。
 先ほど舌打ちされた中年の男をひと睨みして、目的地である本屋へ急ぐ。来年、大学受験を控えているので、志望校の参考書が必要なのだ。
 ちなみに、私の志望校は都内のパワフル大学。学力もそこそこ、芸術やスポーツでの活躍もそこそこ、名声もそこそこといった具合のそこそこ大学だ。そこそこ大学でそこそこの大学生活を送り、そこそこの企業に入る。慎ましい私の夢だ。そういった大学はありすぎて腐るほどなのだけれど、パワフル大学は、立地条件が良かった。
 逆を言うなら、立地条件を除けば、パワフル大学以外でもいいのだけれど、まあ、いわゆる第一志望というやつなのだ。
 そうこうしているうちに、また一人携帯を片手に下を向いた男とぶつかりそうになり、私は既のところで大股歩きを繰り出して避けた。男は、私にも気づかない素ぶりで通り過ぎていく。
 男の耳にイヤホンがあるのを見て、なんだか悔しくなった。
 そうした紆余曲折を経て、「早く本屋に行こう。こんなところにいてもいいことなんてなさそう」と、覚悟を決め、そそくさと角を曲がった。
 そこで、人とぶつかった。
 ドテッとなさけない効果音と共に転倒して、さらに地についた両手の痛みが身体中を反響して、私はようやく事態を把握した。
 これまで衝突を防いできた中年男と、イヤホン男の次の、三度目の正直だと言わんばかりの会心の衝突だった。あまりにも痛い。そして、仏の顔も三度までというのに、人間の私が三度も我慢できるわけもなく、私の怒りの矛先は曲がり角から現れた彼に向いた。
 ちなみに、矛先の張本人は腰を落とすこともなく立っていたので、心底腹が立った。
「ちょっと! どこ見て歩いてるの!?」
「あっ、ごめん!」
 彼はつばがついた帽子をかぶり、スポーツウェアを着ていた。
 私の剣幕に、ばつが悪そうに帽子のつばを触り、彼はもう一度「ごめん」と呟いた。
 その言葉を聞いて、私は素直に驚いた。
 だって、さっきの中年男やイヤホン男のように舌打ちしたり、無視したりすると思っていたから。今の私からすれば「ごめんなさい」なんて言葉は頭の熱を冷ます特効薬になるわけで。
 怒りの矛を片付け、私は立ち上がった。
「まあ、私も悪かったしいいよ」
「怪我はない?」彼は笑顔で聞いてきた。
「両手擦っちゃったくらい」
「えっ、それは大変だ! ばい菌が入らないように洗わないと!」
「別に平気だよ、そのうち治るし」
「でも、俺が怪我させたわけだし……」
 笑ったり焦ったり、忙しい人だな。
 けれど、これまで携帯しか見えていない無神経で傍若無人な態度に振り回されてきたので、出会ったばかりの彼の親切心は身に染みて心地よかった。お嬢様面をするわけではないけれど、彼のご厚情に甘えていたかった。
 だから、新宿の街の中でもそびえ立つデパートを指差した。
「そんなに申し訳ないと思うなら、買い物に付き合ってよ」
 我ながら勝手な申し出だけれど、彼は快諾した。
「ちょうど、俺もあのデパートの中にあるスポーツショップに行こうと思ってたんだ」
「へえ、だからそんな格好なのね。野球やってるの?」
「そうだよ。こう見えてパワフル大学の野球部なんだ」
「えっ!?」
 思わず甲高い声を上げ、彼に詰め寄った。
「私、来年パワフル大学を受験しようと思ってるの! 今日はその参考書を買いにって」
 彼は目を丸くした。
「そうだったの!? すごい偶然だなあ!」
「ねえ、パワフル大学って校舎はキレイなの?」
「ううん、どうかなあ……。俺は普通だと思うけど、古いとか汚いって言う女の子もいるなあ」
「なるほど……。じゃあ、学食は安いの? すっごく安いって聞いたことあるけど」
「それは保証するよ! 俺もよく買ってるんだ」
「じゃあねえ」
「うんうん」
 そうして、彼は私の野次馬のような質問攻めにも嫌な顔一つせずに丁寧に答えてくれた。
 時には「ここだけの話なんだけどね」とわかりやすい授業をしてくれるオススメの教授の話だとか、「あのサークルは飲み会ばかりでろくに試合をしないらしいなあ」と部活やサークルの話だとか、とにかく生々しくも聞き耳を立てたくなるような情報も教えてくれた。私は心のメモにしかと書き留めながら、彼の話をよくよく聞いていた。
 歩きながら話していると、ようやく本屋さんにたどり着く。
 これまで乗り越えてきた傍若無人な苦節を思い出し、よくここまで来たと自分を褒めた。まるで富士山の山頂に来たような清々しさに「ふう」と額を拭う。
 彼はそれを不思議そうな顔で見ていた。
「で、パワフル大学の参考書だっけ」
「そうそう」
「勉強熱心だなあ。俺なんか野球で入学できたから、参考書なんか見たことないや」
「勉強しなくても評価されるものをもってるならいいと思うよ。私はそういうのをもっていないから、勉強するだけだもん」
「えらいなあ」
 立ち並ぶ本棚を見上げたり見下ろしたりしながら、ようやく目当ての本を見つける。
 取り出すと、親指の長さほどの厚さがあったので、そこそこ重かった。「彼に持って欲しいな」と、お嬢様面で考えた。当然、伝わるはずもない。
 そういえば、この人はパワフル大学でどんな生活を送っているのだろう。見た目通り、一に野球、二に野球といった生活なのかな。それとも、意外に勉強も頑張っていたりして。
 あっ、大学生ってことは成人しているかもしれない。ということは、私の喉を通ったことのないお酒なんかも飲めるのかな。車の運転もできるのかも。
 そう思うと、大学生が華々しくキレイなものに思えた。同時に、大学生になりたくなった。
 ここまで鈍色の都会で人波と喧騒の中で生きてきたのだから、私の薔薇色に満ちた華々しい生活がようやく始まってもいいのでは? 薔薇の花よ、咲け! と、腕に抱えた本に想いを馳せた。
「ねえ」
「な、なに!?」
 しかし、いきなり話しかけられたので、持っていた本を落としそうになり、抱えなおす。薔薇の花束を持つような、身の丈に合わない不恰好になった。誠に遺憾だが、私はどちらかというと薔薇の花束より、雑草の束の方が似合っていた。
 私は雑草的な気持ちになった。
 彼はこちらの気も知らず、おおらかに笑う。
「きみってさ、頑張りやだね」
 それが、思いもよらない一言だったので、私は雑草的な気持ちすら枯れ果て、ぽかんとしてしまった。
「え、そ、そうかな」
「そうだよ」彼は頷いた。
「でも、参考書くらい誰でも見るし」
「参考書もそうなんだけどさ。きみ、俺の大学の話をすごく真剣に聞いてたから」
「そりゃ、年上の話だもん」
「ええ、本当にパワフル大学に行きたいんだと思った」
 私は押し黙る。「まあ、そこそこにね」と返そうとしたのに、言葉が出てこなかったから、私は口をもごもごさせていた。
 しばらくそうしたあと、口を開くと出てきたのは「なにがなんでも行きたい」という言葉。これには、頭が人で体が馬の生き物のようにちぐはぐで、私が混乱してしまった。一人、目をぱちくりと瞬かせ、本を抱き直した。
 しかし、彼は「やっぱりね」と大きく頷いた。なにがやっぱりなのだろう。大学なんて、どこでもいい。そこそこでいい。こだわりなんてものはない。夢もこれといってない。強いて言うなら、普通の人生を送ること。どこに行っても同じ雑草的大学生活を送るだろうことは、薔薇色キャンパスライフに想いを馳せた時に悟ってしまったというのに。
 自分の言うことをきかない口に、白旗を上げた。
「俺、君はパワフル大学に入れそうな気がするよ」
「なんで?」
「まあ……勘、だけど」
「説得力ないなあ」
「一応在学生の勘なんだけどな」
「じゃあ、入れなかったらうそつきだからね」
「あはは、それは困るなあ」
 私は口から出まかせながら、自分の心を見極めようとしていた。彼をうそつき呼ばわりにまでして、どうしてパワフル大学に入りたいのだろうと。
 しかし、その真意はわからなかったので、悔しさだけが取り残された。その隙にも私の口は「野球部を見てみたいかも」「パワフル大学、今度案内してよね」と相変わらずちぐはぐなことを垂れ流し続けていた。
 この大学に入りたいと切望する気持ちは確かにあって。昨日にはなかったものが、心を占めるのは別に悪いことではないでしょう。なので、パワフル大学を本気で目指してみよう。
 私は意気込みながら、再び本を抱え直した。彼はそれを見ていた。
「ああ、ごめん。女の子に物を持たせられないね。俺が持つよ」
 そうして、腕から参考書が抜き取られ、私より高い位置にある彼の手へと収まる。
 すると、また一つパワフル大学に行きたいと名前をつけられない気持ちが燃え上がる心地がした。

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