短編

□人の真価とはいかに
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 時には車をもたず、適当な私服で街中を歩くのもいい。とある休日に思い立った僕は、一人賑わう休日の街角に繰り出したのだ。
 天気は快晴。雲ひとつなく、澄んだ水色が遥か彼方まで続いていた。これ以上ない好天候だった。
 プロ野球選手としてファンが少ないわけではないため、気軽な外出をしてファンに捕まったりしないかと心配だったが、それも杞憂だったようで、意外にも他人から声をかけられることなく、人々の賑わいとすれ違いながら歩く。
 我ながら、こんな選択は久しぶりだ。次第に湧き上がる高揚感に身を委ねるのも悪くはないだろう。僕は気の向くまま風が吹くまま足を運んだ。
 穏やかな時間だった。
 今思えば。
「あら、猪狩」
 名前を呼ばれて振り返る。
 うるさいのが来た、と思った。
 そこには、名字名前がいたのだ。
 彼女は、僕と同じく父親が会社を経営している。おそらく、世間の立場としては僕と大差ない。
 張りのよい服と代名詞の茶色いツインドリルとかいう手のかかりそうな髪をふわふわ揺らし、ヒールの音を立てて歩いてきた。
「名字」
「一人なんて珍しいわね。散歩でもしているの?」
「そんなところだよ」
「偶然ね! 私も散歩していたところなの」
 彼女は、高飛車な容姿のくせに、天真爛漫な一面があった。
 僕が散歩をしていると聞けば、僕のそばまで駆け寄り、当然と言わんばかりに同行しようとする。人の意などあまり介さない女性だ。
 とはいえ、驕傲な女性ではなかった。名字は、わりとものわかりが良く、自分とは異なる立場の人間とも分け隔てなく接しようとしている。社会的地位の高い人間にしては人間味があった。
 僕は、人間味のない人間を見たことがあるので、その点については彼女の器量を買っていた。
「君もついてくるのかい?」
「なによ、私が一緒だと不満なの?」名字が口をむんと曲げた。
「別に、そうとは言ってないだろう。ただ、大した用もなく出歩いていたからね」
「そのことなら構わないわ。これから行く場所を決めればいいだけだもの!」
 誰の前でも自分を貫く彼女のことだ。僕がこれ以上言ってもムダだろう。そんな彼女に呆れも尊敬もするので、その意を込めて「相変わらずだな」と返せば、彼女は何故か得意げに笑う。
 そうして、僕の隣に立った。
 彼女は意外と背が低い。ましてや、一般男児の身長を10センチほど超えている僕と並ぶと、彼女はまるで子供のようだった。
「じゃあ、とりあえずこっちに行ってみましょ」
 しかし、かなりの差がある背丈を気にすることなく、彼女は僕の一歩前を歩き始める。彼女の小さな背中に引かれるようになった僕は、ひとまず着いていくのだ。



 お嬢様と呼ばれる彼女は、意外にも庶民的だった。
 そもそも、僕は名字名前に対して高貴な印象を抱いていたが、名字は庶民らしい部分ももち合わせていた。
 今、彼女の手にはアイスが握られている。それも、自動販売機で買えるようなプラスチックの棒がついたものだ。120円だったか150円で買える。
 彼女は職人が微調整を施すような物音ひとつ許さないきりりとした顔で、ゆっくりとアイスの紙を剥がした。
 そして、紙を全て剥がし終えるころ、ひくりと鼻が動き、彼女の顔に全宇宙が平和になったかと思われる至上の悦びの色が広がった。ぱあ、と効果音すら聞こえてきそうだ。
「よしっ」
 あまりにも真剣だったので、おかしくなってしまった。
「名字、ずいぶん真面目だね」
「だって、この紙にアイスがくっついちゃったらなんだか悔しいじゃない」
「子供みたいだ」
「あら、ほめてるの?」
「どうだろうな」
「じゃあほめられてると思うわね」
 彼女は至上の笑顔のまま、アイスを一口食べた。僕はその様子を眺めていたが、彼女は僕の視線に気づかず、庶民らしく「美味しい」と言いながら二口目にありついた。
 四口目ほどのこと、名字がようやく僕の視線に気づくが、彼女は手元のアイスと僕を見比べたのち、にこりと笑い、僕にアイスを傾けた。
 おおかた、僕がアイスを欲しがっているようにでも見えたのだろう。
 僕は人が食べているものをねだるような卑しい人間ではないが、彼女は卑しい人間にもアイスを恵んでやるような器の人間だ。
「猪狩も食べてみる?」
「いや、別にいい」
「あら、食べたかったんじゃないの?」
「食べるとすれば、僕はもっといいアイスを食べるよ」
「ものの真価は値段じゃないのよ」
「値段も価値のひとつだけどね」
「可愛くないわねえ」
「男に可愛さを求めることが間違いだろう」
「それもそうね」
 名字はくすくすと笑いながら、アイスを平らげた。「ごちそうさまでした」と手を合わせる姿はやはりお嬢様のそれで、彼女の品格を思い知る。
 アイスの棒を丁寧にティッシュで拭き取ってからくずかごに捨てる。そして、ふわふわと揺れるツインドリルの髪を指ではさんで梳いた。細い髪一本一本が、くるりと柔らかな曲線を描いたので、不意に見惚れた。
 名字は、こういう女なのだろうか。
 僕は彼女をまじまじと観察してみた。
 容姿で言えば、美人な方である。だが、そうではなく名字の奥深くに眠る形のない鏡のような、水晶のようなきらめきを僕は探した。
 彼女はあてもなく歩きながら、「あっち、なんだか賑わっているわね」と時折進路を変えていた。僕は、その度に揺れる髪と名字の瞳を眺めていた。彼女の瞳からその奥まで見通せるような気がしたからだ。
 彼女の澄んだ目には鏡のような、水晶のようなきらめきが宿っていた。
 なるほど、と僕は思う。ついでに、名字のもつきらめきがより輝いているところを見てみたいとも思う。
 ふと、彼女の言葉を思い出す。
「真価、ねえ」
「なあに?」
「いや、なんでもないよ」
 名字の真価だなんて僕にはさっぱりわからないが、と自分の心に言い残して彼女を追った。
 名字は、やはり目を輝かせながら僕の腕を引き、街中を駆けていった。
 

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